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2011年7月31日

創成期

(12)永い付き合い

今度の休みに飛ばしに行くってぇんで付いていくことになった。飛ばしに行く前の日は興奮して全く寝られなかった。当時、都内でも空き地がいっぱいあって飛行場に困ることは皆無だった。

初飛ばしの日、従兄弟の家に行くと飛行場は近所だから一休みしてから行きなさいと叔母に言われたが聞こえなかったってぇより、早く飛ばしに行きたいの一心だったと思う。

飛行場は従兄弟の家から歩いて五分位のところだ。周りは新興住宅が建ち始めた場所だった。エンヂン飛行機に金属製のワイヤーを取り付けて伸ばして行くではないか。10m強の長さだ。エンヂンの後ろに付いている燃料タンクに燃料を入れ、焼玉式2サイクルエンヂンなので2Vのワンセルのコロイドバッテリーとエンヂン頭頂部に付いているグロープラグ(2Vニクロム線タイプ)にワニ口付きコードを接続してベンチュリーと言われるキャブレターに相当するところに燃料を数滴たらし、いよいよエンヂン始動だ。

飛行機の胴体など従兄弟の指示のままに持ち、従兄弟の指がポココンポココンとプロペラを回し始めること数秒で夢にまで見たエンヂンが動いた

凄い音だ。グロープラグからワニ口付きコードを外し、ニードルと言われる混合気を調整するところを回して行くとピーッと言う音に変わった。飛行機を押さえている腕が引っ張られる。凄い力だ。モーターとは全然違う。飛ばす前から虜になった。バイクみたいに白い排気煙が出ている。メチャメチャカッコイイ。

従兄弟がワイヤーの付いているハンドルを持ち左手を上げた。飛行機を放せと言う合図だ。地面をスルスルと滑るように走り始め、ふあっと地面を離れ浮いた。飛んだ、飛んだ、凄い、初めての経験とは言え生涯でこんなに興奮したことは無い

近所のおじさん、おばさんが出て来た。「うるせぇー」って今だったら怒鳴られる。ところがである、飛ばし終わった後に話しかけて来た。お兄ちゃん達いい趣味やってるね。技術を磨いてこれからの日本を背負って立ってくれって激励された。嬉しかった。

自信はないが、確かこの頃テレビで三遊亭小金馬が司会だったと思うが「陸と海と空」ってぇ番組をやっていた。番組に模型のマニアかテーマに従って応募、採用されると番組に出演出来るのだ。製作かかわる話をするんだ。つまり自慢話が出来る番組だ。ジャンルにかかわらず模型やってるヤツは毎週見ていた。もち、おいらも欠かさず見ていた。昔のこのようなことを思い出すにつけ、当時社会が子供たちを支えバックアップしてたんだなぁと思う。古き良き時代に青春を過ごせた事を感謝するしかない。

余談だが、その後も従兄弟ん家には数え切れないほど遊びに行った。そんなある日、空から聞き慣れない爆音が聞こえて来た。空を見上げると何と四発の爆撃機B29が飛んでいた。キラキラ光って綺麗だった。皆に話したが、半数が信じてくれなかった。飛行機オタクだったおいらが見間違えるはずが無い。テレビで吹き替え版の「世にも不思議な物語」が放映されていた。

これがエンヂンとの永い付き合いの始まりになると何となく感じた




2011年7月29日

創成期

(11)Uコン

時は過ぎ小学五年になるちょっと前、三つ年上の従兄弟が遊びに来たんだ。面白いもの始めたんで遊びに来ないかって言われた。もち直ぐ行くしかない。自転車に飛び乗り従兄弟ん家へ向かう。おいらの自転車は内装三段の今で言うママチャリだ。従兄弟の自転車は外装五段のドロップハンドルがついたスポーツ車だ。グングン離されて行く。必死について行った。

この従兄弟とは吹き矢(矢の先端に蓄音機の針を着けて貫通力を高めてある改造吹き矢)でセミ獲りに行ったり、セルロイドを燃料にしたアルミ鉛筆キャップロケットを作って飛ばしたり、パチンコ(ゴムで小石を飛ばす道具)で蜂の巣落としに行ったりと危ないけど楽しい遊びをやった仲間だ。特にアルミ鉛筆キャップロケットは改良に改良を加え、カタパルト(ロケット発射台)も進化させたりと飛距離が驚異的に伸びた。あまりにも飛ぶんで危険を感じ止めた。

従兄弟の家に着いたとたんに臭って来たってぇ言う感覚ではなく、匂って来たってぇ感じだ。何と香しき匂い。

後に解るのだが匂いの正体は燃料に混合されてる芳香族系のニトロベンゾールってぇヤツだ。後にニトロメタンに代わってしまい、香しき匂いは無くなってしまうのだ。

一本引きの玄関扉を開けると近所の兄さん達がポココンポココンブブブッービーッってやってたのが目の前にあるではないか。

従兄弟へ質問の嵐だ。当然の結果だが貯まっていたお年玉は模型屋に消えて行くことになる。

従兄弟には今でもこれからもどんなに感謝しても足りないくらいだ




2011年7月27日

創成期

(10)共同作品

小学一年生か二年生の夏休みに宿題がでた。得意の工作だ。親父と一緒に水車小屋を作ることになった。勿論、外見だけではなく中の米を搗く杵や臼も作るのだ。

模型屋の前にある金物屋に糸鋸を買いに行った。大工が使う道具がいっぱいあった。何人かの職人がノコギリの目立てをしている。刃物を研いでいる職人もいる。おいらもこんなことが出来たらいいなと思い親父が糸鋸買ってる間、職人の作業を見ていた。

一人の年長の職人が、お兄ちゃんもこういうの好きかって言われた。コクリと首を前に振った。帰りに近所の材木屋で杉板を買い、親父と帰宅、早速作業に入る。親父の凄さを知った。まるで大工だ。おいらはほとんど押さえたりするだけの手伝いだった。親父に鋸や糸鋸のちゃんとした使い方を教わった。学校が始まると作品提出だ。クラス全員の視線を浴びた。金賞を取った。その後教材として使いたいと学校から依願された。その水車小屋は二度とおいらの元に戻って来ることはなかった。

エンヂンが欲しい、何としても欲しい。親父にねだってみた。ただではOKしないので、エンヂンボートを自作したら買ってくれるかと頼んでみた。あっさりOKした。杉板を使って初期のパワーボートの様なものを創った。イカみたいなカッコウしたヤツだ。ラッカー塗って完成した。親父に見せたがエンヂンを買ってくれることは無かった。裏切られた気持ちで胸が張り裂けそうだった。しばらくして絶対無理だと悟り諦めた。親父は小さなおいらにエンヂンは無理と判断したんだと思う。慎重な親父なんで模型屋に相談したんだと思う。今思えば小学校二年生のおいらにエンヂンは絶対無理だ。ただ母親が「テレビでお前の創ったボートと同じようなボートが新しく創られ最高スピードに挑戦してるのを見たよ」って言われた。本当にお前の想像力は凄いって褒められた。せめてもの救いである。

空ではアメリカのX1−Eと言う有人ロケット機未公認ながらマッハ1音速を突破したとラヂオで放送されていた。この当時、世界では陸海空で最高速競争が盛んに行われていた。ワクワクすることが一杯の時代だった。

余談だがモーターを回す電源である電池は酷かった。懐中電灯のスイッチを入れてものの十分もしない内に赤熱電球が暗くなってくるんだ。単一しかなかったようだ?。いくらだか忘れたが高価だった記憶がある。懐中電灯のスイッチを入れた時の電気の匂い(スイッチのオンオフする度にスパークし、その時に発生するオゾンの匂い)がたまらなく好きだ。

これ又余談だが校外授業で整列しながら歩いていた時、前から荷馬車がやって来たんだ。とても綺麗な茶色い馬が荷車を引いていた。あまりにも綺麗だったんですれ違い様に馬のお腹を触ってみた。荷馬車を引いてたおっさんに、おもいっきり怒られた。馬ってぇのは神経質な生き物なので、ちょっとした事で暴れることがあるんだ。危ないことすんなと言う事だった。引率の先生に後頭部を押さえつけられて強制的に謝らされた。

当時、東京でも荷馬車がいっぱい走ってたんだ




2011年7月25日

創成期

(9)エンジン飛行機

この頃、広告宣伝の手段として軽飛行機からビラをまくことがあった。

超低空を飛ぶ軽飛行機の爆音が聞こえると皆で追いかけてビラを拾いに行った。いっぱい拾えたヤツがヒーローだ。たまたまだが束のまま落ちて来るビラを見つける運のいいヤツもいた。自動車などあまり走っていない時代だ。空を見上げながら走れたんだ。いい時代だった。

段々と自動車の往来も激しくなり、ビラを追う子供たちが事故に遭遇するようになった。そして軽飛行機によるビラ撒きは禁止になった。

小学二年か三年の頃、近所の兄さんが模型飛行機のようなモノの先端に付いているモーターのプロペラを指で回してるんだ。電池で回るモーターしか知らねえおいらにとっては初めて見るモーターだ。指で回してる音が電池で回るモーターとは全く違った音で文字に表すとポココンポココンってぇ音だ。頭の中は???????だ。

これがおいらとエンヂンとの出会いだ。

寝ても起きてもポココンポココンだ。学校に行ってもポココンポココンだ。何やっても手に着かない。ポココンポココン、ポココンポココン、気が狂いそうだ。

近所の兄さんが至る所でポココンポココンってやってる。

ある時、近所をぷらぷらしてたらポココンポココンやってるところに出くわしたんだ。遠くから見てたらブブブッービーッって音が聞こえモーターから白い煙が出始めたんだ。

なな何だぁこりゃ??????モーターが燃えて壊れたのか??????訳わからない。

その日から頭の中はブブブッービーッ、ブブブッービーッ、ブブブッービーッに占領されてしまった。行きつけの模型屋さんに勇気を出して聞いてみたら「そりゃエンヂンってぇ電池じゃなくて燃料で動くヤツだよ」って説明してくれた。でも良く解らない。

頭の中はエンヂンエンヂン、エンヂンエンヂン。寝ても覚めてもエンヂンエンヂンだ。




2011年7月23日

創成期

(8)執念の「銀に輝く鉄砲」

確か小学二年か三年の時、あまりにもおいらが病気するんで親父が行きつけの医者に相談したんだ。そしたら扁桃腺肥大で直ぐ扁桃腺が腫れるから発熱し易いので、扁桃腺を取った方が良いと言われた。近所の医者に紹介され西落合の病院で手術をすることになった。

親父は病気で娘を亡くしている。おいらの姉さんだ。姉さんが三歳の時ヂフテリアに罹ったのを当時住んでいた町医者が風邪と誤診したんだ。その後生まれたおいらは病弱、親父はおいらの命を守るために必死だったのかもしれない。

手術なんて初めてだ。おっかなくて、おっかなくて、ビビッていた。親父が勇気付けのために「泣かないで手術出来たら、欲しがってた銀色の鉄砲買ってやる」って交換条件出して来たんだ。予てより欲しくて欲しくてしょうがなかった鉄砲だ、この条件呑むっきゃない。その鉄砲の値段は五百円だった。好きなことには全力投球な性格である

手術の日が来た。歩いて行ける距離だったが、バスに乗って西落合の病院に親父と一緒に行く。着くと看護婦さんや先生が不自然なくらい親切で優しいんだ。しばらく待っていると着替えさせられた。先生に大した事無いから安心しなさいと言われた。おいらはそんな事より銀色の鉄砲の方が気になっていた。

看護婦さんと手術室に行く。手術台に寝かされて手術が始まる。

口にホース付きのマスクみたいなものと布を被せられた。おいらの記憶はここまでだ。気がついたら手術は終わってた。泣く暇なんて全く無かった。病院に一泊したような記憶があるが定かではない。病院からの帰りに玩具屋に寄って銀色の鉄砲を親父は約束通り買ってくれた。

今思うと凄い執念だった。この日から病気することは無くなった。将来、色んな事を克服するのだが、これが克服の初めである。ホルスターは親父がフェルトか何かで足踏みミシンで作ってくれた記憶がある。百連発の巻き弾は近所の元気な婆さんがやつてる「おばばって言われる駄菓子屋」で買った。小遣いはもらっていなかったので、その都度お袋からもらっていた。

駄菓子屋で弾を買う度に、いつか箱買いしてやると心に誓った。そして火薬を装填して撃ちまくった。火薬のいい匂いが家に充満した。直ぐに無くなる。改めて箱買いしてやると心に誓った。テレビで西部劇が始まるとテレビの前に立ち、打ち合いのシーンで早撃ちの練習をするのが楽しみとなっていた。

余談だが、サラリーマンになって健保組合から30年間保険を使わなかったってぇんで、薬の詰め合わせか何かをもらった。病気しねぇんだから薬の詰め合わせ何ざぁいらねぇのにって思った。




2011年7月21日

創成期

(7)社会

この当時、原爆実験がアメリカやソ連などの大国で行われていた。第五福竜丸事件も原爆被災によるものだ。遠洋漁業に出ていて原爆実験の側を航行していて死の灰を浴びたのだ。そんな中から生まれたのがゴジラだ。ゴジラは架空の生物であるが原爆実験の産物なのだ。

広島、長崎と原爆被災、平和になっても第五福竜丸だ。こんなことばかしやってると、いつか地球に復讐されると思ったのはおいらだけではなかったはずだ。形を変えたゴジラの襲来だ

この頃のおいらは身体が弱く、二日おきに学校を休んでいた。病院にもしょっちゅう行ってた。病院でよく注射を打たれていたので、痛みに強い子になって行った。挙句の果てに股関節脱臼で生まれてきた。

小学五年まで体育は見学だった。皆と一緒に体育をしたくても出来なかったのだ。ただ、暇なので体育をしてる同級生の一人一人の動きを観察してた。小学六年生から体育が出来るようになった。ドッチボールで日ごろの観察が役に立つことになる。敵の動きが全部読めるのだ。いつも最後まで残る。クラスのヒーローになった。ヒーローになったことで敵もふえることになる。冷たく接するダチも出てきた。社会生活に於ける最初の試練かもしれない。

余談だが、試練って言えば幼稚園の時に刀で切られたことがある。刀と言っても玩具の刀だ。玩具と言えども刀身は鉄で出来ていた。おいらは鉄砲と刀が大好きで、クリスマスのたんびに刀を買ってもらっていた。

ある日古い刀を近所のダチに貸して、おいらは買ったばかしの刀でチャンバラしてたんだ。映画のチャンバラの様に刀と刀を合わせて戦ってたら、一瞬目の前に閃光が走りダチが呆然としてるんだ。おいらの顔面に何か暖かいものを感じたので手で顔を触ってみた。手を見ると手が真っ赤に染まっていた。家の近くだったんで走って帰った。おいらの祖母さんが裸足で飛び出して来た。おいらは祖母さんの顔を見たとたん、泣き出してしまった。近所の外科病院に行き、縫合手術をした。鼻の窪んだところを切った。後ちょっとずれていたら失明していたかもしれないと医者に言われた。その時以来刀は買ってもらえなくなった。

もちダチが本気でやったんではなく、刀身を柄に止める目釘ってぇのがチャンバラ中に抜け落ち、ダチがおいらを切りつけた時、刀身が抜けておいらの顔面を直撃したのだ。ダチに責任は無い。古い刀を貸したおいらが悪いんだ。試練とは言えないが痛い思いをして学んだのはメンテナンスは必ずやれだった

色々あったが、バイクのあらゆる動きが読めるようになったのも、この小学校時代に鍛えた観察力のお陰だと思ってる。




2011年7月19日

創成期

(6)幻灯機と8mm撮影機

親父はあるとき幻灯機なるものを持って来た。

夜になると早速映写会だ。白い壁に向けて幻灯機を置く。ネガフィルムではなくロール状のボジフィルムを幻灯機にセットした。電灯を消しスイッチを入れると白黒ではあるが、デカイ写真の様に白い壁に映し出された。無声なのだが、親父がフィルムのセットされているつまみの様なものを回すと、紙芝居の様に絵が展開されていくんだ。単純だが楽しめる機械だ。何でも試してみたいおいらはネガフィルムを試してみた。白黒が反転していて画的に全く面白くなかった。

親父は写真機好き、映画好きとくりゃ、当時未だ珍しかった8mm撮影機(ダブルエイトと言うタイプ)でおいら達を撮影、記録していた。今で言うビデオカメラ

写真屋からフィルムがあがって来ると夜は映写会だ。写真と違って無声だが動くので面白く楽しいものだった。

時が経ってレンズが三本のターレット式8mm撮影機を買って来た。三本の異なる口径のレンズを回転させられるものだ。簡単に言えば広角レンズ、標準レンズ、望遠レンズ付きだ。親父はトリック撮影を多用するようになった。

ちょっと高い所から飛び降りろと親父に指示され従った。親父は8mm撮影機のフィルムセットし直し、撮影機を逆さに持って撮影した。訳がわからない。写真屋からフィルムがあがって来ると映写会ではなく、何だかよく分らない道具を使ってフィルムを切ったり貼ったりした。そして待ちに待った映写会だ。見ていると親父以外全員が声を上げビックリ仰天した。高い所から飛び降りたはずなのに忍者の様に高いところに飛び乗っている。拍手喝采だ。親父は得意気な顔して満足そうだった。

静止画の写真と違って8mmは編集ってぇ作業がある。撮影時間はフィルム一本が三分程度なので、家族旅行に行った時など五〜十本程度のフィルムを持っていくんだ。帰ってから写真屋に現像に出し、出来上がると全フィルムをつなぎ合わせたり、トリック撮影などは逆につないだりしていた。

当時は8mm撮影機なんざぁ珍しい時代、映画の撮影隊が来たと勘違いして皆どいてくれた。カメラと被写体の間を横切るヤツは皆無だった。嘘のような本当の話である。




2011年7月17日

創成期

(5)映画

科学の目覚めは映画かもしれない。

親父は大の映画も好き。そんな親父はよくおいらを映画に連れてってくれた。ニュース映画ってぇやつだ。終日ニュースばかりやってる。親父は特に海外のニュースを見ていた。小さなおいらでも内容が面白かった。アメリカの時事がメチャメチャ面白い。プロペラ機で金門橋の下をくぐったり、訳が解らないが面白いものを発明して、デモンストレーションしてる様は滑稽だが面白い。アメリカ人って底抜けに明るいと思った。

ある日親父が映画見に行こうって、いつもの様に映画館に行くがいつもと様子が違う。ニュース映画ではない。アメリカの今で言う特撮モノだ。「キングコング」って題名の映画だ。題名自体理解出来ない年頃のおいらだが、何か期待出来そうな予感がする。始まった、白黒映画だ。ストーリーが展開していくが、おいらには良く解らない。当たり前だが全て英語だ。何か不気味さは感じている。いよいよコングの登場だ。1コマ撮りの今から思えばギコチナイ動きだが、初めて見たものにとっては迫力満点だ。アメリカは凄いと思った。

長じてから判ったのだが、1930年代に製作された映画だ。帰ってからしばらくの間、キングコングの夢を見ることになる。単純なヤツだ。

しばらくして日本にも特撮ブームを予感させる映画が登場した。ゴジラである。

ゴジラの記念すべき第一作目が封切られたのだ。昭和29年、おいらの町にもやって来た。おいらの町には三つの映画館がある。目白東宝と長崎東映と平和シネマだ。ゴジラは東宝系なので目白東宝へ見に行った。おいらの記憶では、その名の通り目白東宝は東宝系の映画を、長崎東映は東映系の映画を、平和シネマは他の日本映画や外国映画を上映していた。平和シネマには学校の校外授業ウォルト・ディズニーの作品を良く見に連れて行かれた。国内の映画が白黒だった時代にディズニー映画は総天然色だった。やはりアメリカは凄いと思った。今、この三館とも存在していない。

この当時、映画は娯楽の王様だった。ゴジラが銀幕に映し出され始まった。円谷何とかって何て読むか分らない名前がクレジットに出ていた。えんやとしか読めない。つぶらやと読めるまでえんや何とかとしばらくの間呼んでた。

キングコングに比べたらゴジラの動きがいい。これ又、後に判るのだが1コマ撮りではなく、着グルミなのだ。プロペラ機でゴジラを攻撃するシーンはUコン機が使われていた。

その他ジョニー・ワイズミラーのターザンはロードショーされる度に見に連れて行ってくれた。主役の名前は忘れたが、「ジャングルブック」や「アリババと40人の盗賊」や「シンドバッドの冒険」など外国の映画を見に連れてってくれた。冒険モノなど多数の映画を見に連れて行ってくれた。その中でも「地底探検」や「宝島」は面白かった。「アリババと40人の盗賊」を見た後はターバン巻いてる盗賊が夢の中にしばらく出て来た。

今でも、おいらは月平均40本位暇を作ってDVDを見ている。映画好きは親父の影響だと思う




2011年7月15日

創成期

(4)動力と科学

ひょうたん池は船を浮かばすには適当な大きさだ。

当時ゴム動力って言って、ゴムの反発力を動力にした飛行機、車、船があった。現在のようにモーターや乾電池の性能が良くなかったり高価だった時代の代替動力だった。飛行機は学校の校庭や原っぱで飛ばし、車は近所の広場か校庭で走らせた。船はプールと思うだろうが、管理が厳しく無理だった。ってな訳でひょうたん池でってなことになる。

おいらたちの作るゴム動力の船は2、3メートル走らせると動力が終わってしまう。ひょうたん池は水溜りなので岸から岸へ行けるのだ。

動力としてのゴムは模型で競技会が開催されるほどポピュラーなものになっていた。

この頃のガキ共は器用、不器用、上手い、下手に関わらずゴム動力模型を作っていた。車用、船用と動力ユニットだけでも購入出来たので自由な形を木で作れた。飛行機も動力ユニットが売られていたが、キットを買う方が簡単だった。

ゴム動力飛行機は進化し続け、現在でも格式ある競技会が開催されている。その他の動力として玩具の領域から出なかった船でローソクショウノウがある

ローソクは直接の動力ではなく熱源として使うんだ。ブリキで出来た小さな船の中に二枚の鉄板を合わせたモノに金属製の管がロウ付けされていた。二枚の鉄板の下にローソクを配置、水に浮かべローソクに火を点ける。暖められた二枚の鉄板の下側の鉄板は熱膨張を起こして膨らむ、膨らむとポンプ作用で船外に伸ばされた金属製の管から水が吸い込まれる。吸い込んだ水で鉄板が冷やされると膨張していた鉄板は元に戻る。戻ると水が船外に押し出される。ってな事を繰り返す。作用反作用の原理で船は前進することになる。その時ポンポン船の様な音がする。実際はぺコンペコンと言う音だったと思うが子供の想像力でポンポン船と呼んだ。単純だがローソクが灯ってる限り走り続ける。

原理が知りたくてローソクに火を点けたまま水に浸けず、持ち上げて中を見てたら、鉄板が変形してしまい、二度と動かなくなってしまった。

ショウノウはセルロイドで作られた小さな船の船尾にショウノウを挟み水に浮かべるとショウノウが水と反応して結構勢い良く前に進んだ。ポンポン船とショウノウの船は風呂でよく遊んだ。両船共縁日や駄菓子屋で売られていた。

ゴム動力に比べ模型ってぇより玩具性が高く、おいらは飽きてしまった。




2011年7月13日

創成期

(3)冒険と化学反応

写真機はどこに行くんでも持って行った。

写真屋からフィルムの現像があがってくると、引き伸ばしだ。以前買ってきた現像液や定着液を東横の写真屋で買って来た材料で作る。目盛りの付いたビーカーに各々の材料を入れ水で溶かし必要量を作り、一升瓶に夫々入れる。酸っぱい臭いがする。引き伸ばし機や現像液や定着液や水洗用バットを用意する。電気を消してカーテンを閉め、赤い電球を灯す。引き伸ばしの始まりだ。

それぞれのサイズのネガを自在に大きく引き伸ばしていく。親父は凄いと思った。そんな親父だが、現像液だか定着液だか忘れたが、一度配合を間違えて爆発させたことがある。珍しく酔っ払っていての時だ。

おいらが意識して化学と接した最初だ

この時代、学校は自由に出入り出来た。暇になると学校へ行けばダチがいる。いれば何らかの遊びが出来る。又、新しい遊びも生まれる。誰となく「探検しないか」ってぇんで探検に出る。近所には林や人口池(ひょうたん池と言って整地工事途中のところに出来た水溜りの大きいヤツで、次に行くと無くなってる場合があった)がいっぱいあった。何でひょうたん池って言うか、何故かその水溜りがひょうたんに似ていたからだ。何回か行くと飽きてくる。変化がないのだ。

遠征することもしばしばあった。その遠征先に学習院があった。目白駅の側にある学校だ。現在は塀が施され自由に出入り出来ないが、昔は強固な塀は無かったので容易に内部に潜入出来たのだ。当時の学習院は植物が生い茂り池があったりと、おいら達にとってはジャングルだ。探検のし甲斐があるところだ。何回か行くうちに警備が厳重になり、いつしか内部突破は難しくなって来た。守衛に追いかけられ追い出されるヤツが出て来たのだ。 リスクは避けるがモットーのおいらは行くのを止めた。その後、ダチが捕まって説教されたってぇ話を聞くことになる。と言うおいらも守衛に一度追われた事があった。もの凄くおっかなかった。

追われる前の学習院は探検する格好の場所だった。




2011年7月11日

創成期

(2)百貨店

池袋には五つの百貨店があった。東口には西武百貨店マルブツ百貨店三越だ。西口には東武百貨店東横百貨店があった。当時の百貨店は何でも扱っていた。その名の通り百貨店だった。当時から残っている百貨店は現在西武と東武だけだ。

親父の行きつけの写真屋は東横百貨店にあった。月に一度か二度、百貨店に遊びに行くのが一家の楽しみであった。百貨店のはしごである。池袋に行くには西武池袋線かバス(ボンネットバス)かチンチン電車と言われる都電だ。この当時の東京は縦横無尽にチンチン電車が走っていた。乗り物のその後としてはトレーラーバスと言われる運転室と客室が分れてる、短期間だが珍しいバスも走っていた。チンチン電車も車が段々増えて来た事でレールの無い、架線を利用したトロリーバスなども出現した。

東横百貨店の写真屋で現像液や定着液に使う材料や印画紙を時々買っていた。その他の買い物が終わると昼飯だ。楽しみの一つである百貨店の大食堂で食べるのだ。この大食堂は巨大だ。食べ終わるとこの当時の百貨店の屋上は遊園地のようになっていて、乗り物に乗ったりして遊んだ。時には俳優に出くわすこともあった。七色仮面の主役波島ススムが買い物に来ていた。肌がツヤツヤしてる。赤ら顔だ。オーラを放ってる。今みたいに直ぐ傍に行ってサインをねだるヤツなんて一人もいなかった。2m位離れ遠巻きに見ているだけだった。この時代俳優は憧れだし、別格な存在だった。汚ねぇ話だがその頃のガキ共は、俳優と天皇陛下はウ○コしないと本気で思っていた。

百貨店で外すことが出来ない売り場がある。玩具売り場だ。親父は兄弟三人に一人百円ずつ渡し、勝手に玩具を買わせてくれた。おいらが小学生の時は小遣いは無しだった。その代わりと言う事なのかは分らないが、百貨店に行くと百円以内の買い物をしていいと言う制度を創ってくれたのかもしれない。ブリキの玩具中心に兄弟三人で相談しながら買った。百円を越えても絶対に越えた分は出してくれなかった。絶対条件が百円以内だ。こうして一家の一大行事が終わると夕方になり、各々買ったモノを手に満足気な顔で帰宅した。

買ったモノはどう言う訳か、帰りの電車やバスの中では絶対に開封させてもらえなかった。百貨店の屋上には宣伝用のアドバルーンが上がっていた。




2011年7月9日

創成期

(1)科学の目覚め

昭和の20年代中半から30年代がおいらの形成期だ。

親父が重要な役割を果たしていた。記憶に残る最初の出来事は、どう言う経緯かは分らないが消防自動車に乗るという経験をした。焼玉式の石油を燃料とするポンポン船にも乗らせてくれた。消防自動車(乗って走った)は乗った記憶しかないが、ポンポン船は今でもハッキリと覚えている。エンヂン頭頂部についている焼玉プラグを石油トウチランプで温め、エンヂン前面のフライホイールに付いているハンドルを握ってフライホイールを何回か回すとポンポンと回りだすんだ。今思えば模型のエンジンそのままだ。

余談だが、船に乗る前にボーっと海を眺めていたんだ。船(おいらの乗る船ではない)が、水平線に向かって行って沈んでいくではないか。おいらは叫んだ「船が落っこちる」って。親父が飛んで来た。見た全てを親父に話したら、親父がニコニコして話してくれた。そん時初めておいらは地球が丸いって知ったんだ。常識的な事を知らない怖さを知ったんだ。今となっては笑える話だが、地球が平らだと思っていたおいらにとって、本気で船が落ちると思ったんだ。

豊島園では一人で運転出来る電動カートを飽きるまで乗らせてくれたりした。

親父は写真が趣味だった。おいらが幼稚園の頃から写真機を持たせてくれた。親父はメーカーは判らないがドイツ製のカメラとヤシカと当時最新型キャノン距離計連動フォーカルプレーンシャッターのカメラ二台の四台を使い分けていた。おいらの写真機は2眼レフカメラ(6×6シックスバイシックスってぇロールフィルムを使うヤツだ)だが、よく写るモノだった。 二人の弟達はフジフィルムのフジペットと確か16mmの特殊フィルムを使うスタートカメラ(今風な言い方すればトイカメラ)を持たされていた。親父はフィルムの現像を一度失敗してから、写真屋に出していた。慎重な親父らしい。引き伸ばしは自分でやっていたので、おいらはいつも手伝わされていた。

写真機と言って良いのか判らないが、駄菓子屋で売っていたピンホールカメラや日光写真機写真機の原理を知る上で役に立った。低感度の印画紙を使っていたんで、引き伸ばしに使ってた印画紙だと、どんなに照射時間を少なくしても黒くなってしまった。

適材適所じゃないがモノと言うものは使い方を間違えると間違った答えが出る。良い勉強になった。露出に時間がかかるし、何だかボーっと写るってぇんで直ぐ止めてしまった記憶がある。




2011年7月7日

震災を受けた方々に心からお見舞い申し上げます

はじめまして!

油職人を生業とする頑固一徹なおやじです。
しばらくの間(どの位かは未定)おいらの今昔話にお付き合い願いたい! 生まれも育ちもチャキチャキの江戸っ子、汚ねえ言葉遣いも悪気はねえんで宜しく頼むよ!

前置きはこの位にして、おいらの心情を吐露すんで聞いてくれや。 今まで楽しくなる色んな油を創ってきた。色々と酷評されたこともあった。使ってくれるお客さんと向き合ってもきた。
おいらはお客さんに「結果、喜ばれる油」しか興味はねえんだ。どんなに凄い油だと言われたって、お客さんが喜んで又使ってみたいと言われる油じゃなきゃなあ〜んの意味もねえんだよ。

即効体感が心情のおいらの創る油だが、おいらの創る油は即効体感だけじゃないんだ。おいらが創る全ての油に言えるんだが、特にエンジンオイルは永く使うと解るんだ。それは永く使った人しか解らないってぇとこが欠点でもある。だから未だその結果を知る人がいないってぇことだ。摩訶不思議な油だ。その結果はおいらの油を使ってくれたお客さんに対するおいらのお礼だと思って欲しいんだ。

おいらが創る油はお客さんが、悩んでいることを解決することに主眼を置いている。お客さんが求める油に主眼は置いていない。つまりおいらが若い頃、悩んでいた事を解決してる

これから展開する話はある意味で限定昭和史かもしれねぇ。おいらの体験から得た知識がおいらの創る油に全て注がれている。いつ出て(話の中に)くるか分らないが、おいらの創る油の面白さをおいらの思いと重ねて専門用語は出来るだけ避けて解り易く語ってみたいと思ってる。何故って?難しい言葉並べて話したって、おいらの思いは伝わらない。お互い無駄な時間を浪費するだけだ。簡単な理屈だよ。それには、おいらの体験が深く関係してるんだ。なんせ古い話なんで記憶違いや、話が行ったり来たりするかもしれねぇが、勘弁してくれ。

日本人はエンンが大好き。おいらもエンジンや機械が大好きだ。小学校五年生のころからエンンと言われるモノをいじってたんだ。

何でおいらがエンヂンや機械に魅了されたか聞いてくれ。



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