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円陣家至高油類商

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過去の油職人今昔話

2011年10月30日

学問のすすめ

(9)駆け落ち2

話を戻す。

ダチは長男で弟と二人兄弟、彼女は長女で妹が二人の三人姉妹、当時はしきたりなど古い慣習が残っていた。お互いの両親は結婚には猛反対だ。ヤツとしては二進も三進もいかなくなり、最終手段に出たのだ。

駆け落ちである。

駆け落ちを手伝わされることになった。ダチの勤め先が長野の諏訪湖がある岡谷だ。お呼びがかかったのが、住むアパートの契約に保証人がいるので、印鑑持って来てくれだ。直ぐカローラに乗り岡谷に向かった。

夕方近くに着き、ヤツと契約するアパートに向かった。すぐ契約が出来た。有難うで終わり。おいらは東京へ帰った。

しばらくしてヤツがおいらの家に来た。彼女と合流するため、時間つぶしでおいらの家に立ち寄ったんだ。経過説明を聞いている内、時間になったのでヤツは東京駅に向かった。

彼女と無事岡谷のアパートに着いたと電話があった。その後、二人が落ち着いた頃、バンドのダチと二人でカローラを駆って岡谷に遊びに行った。

バンドのダチも初めて会った彼女を見て「綺麗」とため息をついた。何回か岡谷に遊びに行った。ヤツもギターを弾く。いつもカローラには最初に買ったクラシックギターを積んでいたので、一緒に弾いたりした。

ある時、ヤツが仕事中右人差し指を切断したと聞いた。ヤツはギター弾くのを止めた。

ヤツはこの会社の中国合弁会社の社長をやっている。親に頼る事が出来なかった事もあり、自分の家族の為に脇目も振らず頑張って来たからこそ得たご褒美だとおいらは思っている。

今、両家共彼らの結婚を認め親戚付き合いしている。良かった。唯一つ、ヤツは義理堅くないのが欠点だ。岡谷から岐阜に引っ越す時、何も言わずに引っ越したんだ。大分経ってからヤツのところへ遊びに行ったら岡谷のアパートを引き払っていた。

と言うよりいくら電話しても出なかったので心配して見に行ったんだ。仕方なく会社に行って尋ねたら岐阜工場が出来るので転勤したってぇんだ。電話の一本でもくれりゃぁ良いのに、全くしょうがねぇヤツだ。

今は年賀状程度の付き合いしかしていない。

でも憎めないいいヤツだ。




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2011年10月29日

学問のすすめ

(9)卒業と初めての長旅と駆け落ち1

単位も取れ、おいらも無事卒業が決定した。卒業旅行にも行った。いよいよ卒業式だ。

最初にダチになったヤツがいない。どこ探してもいない。寮に電話したが外出している。どこに行ったんだ。式典が終わった。ヤツはとうとう来なかった。

しばらくして電話があった。

心配かけてスマンと一言。欠席した理由を聞いた。駆け落ちするんだと言った。

話は大学二年になった頃、夏休みにこいつの田舎に行くことになった。旅費を作るためガソリンスタンドでバイトした。時給四百五十円だった。このガソリンスタンドでのバイトが四輪の整備力を高めることになる。短期のバイトで二万円稼いだところで辞めた。

生まれて初めて新幹線に乗った。東京駅には中学時代(貸本屋の息子でバンド仲間)のダチが付いて来てくれた。新幹線から在来線に乗り換え、途中でヤツに合流しバスで二時間、ようやくヤツの家に着いた。

初めての長旅でメチャ疲れた。二度と行きたくない位遠かった。

その日はやつの自宅で両親と弟と全員で歓迎晩飯会が開催された。次の日からは観光巡りだ。どこからかカローラを借りて来た。乗り込むと直ぐに走り出した。車の中でヤツが紹介したい人がいるってぇんで、その人の待っている場所に着いた。

その紹介したい人と言うのは女子だった。もの凄く綺麗な人だ。おいらのダチは鬼瓦の様な顔してるんだ。何でこんな綺麗な彼女がいるんだと思った。ダチは美女に野獣だよって大笑いしてた。それにしても綺麗な人だ。

この彼女の妹を紹介してくれた。妹もとても綺麗だ。帰るまでこの四人で観光した。

楽しい思い出だ。




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2011年10月27日

学問のすすめ

(8)卒論のテーマは「価値分析」

大学ではゼミや卒論の準備の頃になってきた。

卒論のテーマは「価値分析」である。価値分析を簡単に言うと「コストと機能の関係」である。コストが同じなら機能を上げればコストダウンとなる。機能をそのままにコストを下げればコストダウンとなる。これらを基本に、その商品の価値をあらゆる角度から分析しコストダウンを図る手法である

大学の近所にあった企業に協力を依頼して、実習を交えながら卒論に着手した。

毎日その企業から学校に戻って、研究室でその日の分析結果を論議するのだ。夜中の三時を過ぎることもしばしばあった。自宅まで帰るには遠過ぎるので、大学から一番近い叔父貴の家にお世話になることにした。この叔父貴はおいらの親父の一番下の弟で、建築会社を始めたばかりだった。

アパートの二間を事務所兼自宅としていた。おいらが寝泊りするとかなり窮屈だったが、おいらを快く受け入れてくれた。御礼のつもりで当時小学生だった叔父貴の長男坊に勉強を教えることにした。ところが叔父貴はおいらに家庭教師代をくれたんだ。この叔父貴が若い頃、おいらの親父が自宅に住まわせて面倒みてたんだ。そのお返しだったらしい。

おいらにとつては大助かりだ。親父有り難う。

夏休みには大学のゼミで一緒になったダチと、この叔父貴の会社でバイトもさせてもらったり、本当に世話になった。

食う寝るはタダ、バイト代は全て小遣い。通学で使っていたカローラのガソリンまで叔父貴のツケで入れられた。至れり尽くせりだった。

叔父貴有り難う。




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2011年10月25日

学問のすすめ

(7)宇宙開発と大阪万博

アメリカとソ連のロケット開発が激しくなって来た。連日新聞紙面を賑わしていた。

戦後アメリカに亡命したヴェルナー・フォン・ブラウンとソ連のセルゲイ・コロリョフとのロケット開発競争だ。

アメリカとソ連、どちらが先に月に行くかだ。アメリカびいきになっていたおいらはアメリカに勝って欲しいと祈っていた。

軍事目的のレッド・ストーンロケット、改良を加えたジュピターロケット、その後人工衛星エクスプローラ1号を打ち上げ、サターンロケットへと開発や実験が続く。

いよいよアポロ計画がスタートし1969年アポロ11号が乗員を月へ運び、月面へ人類が初めて降り立ったのだ。この時NASAとアポロ11号との交信を記録したレコードが発売された。おいらは近所のレコード店目白堂にレコードを買いに行った。

レコードに針を落とすとおいらの頭の中は宇宙空間を飛行する宇宙飛行士になっていた。又もや空想バカの始まりだ。

余談だが、大学を卒業した年1970年には大イベント大阪万博の開幕だ。アメリカ館に月の石が飾られるってぇんで友を誘って行く事になった。おいらのカローラに5人目一杯乗って大阪へ向かった。

万博会場に着いた。想像はしていたが凄い人だ。一泊二日の予定だったおいら達にとって結局ほとんど何も見れず雰囲気だけ感じて帰って来たのだった。

とにかく凄かった。人人人だ。何か記念になるお土産でもと思ったが、結局何も買わずだった。

お土産は万博に行ったと言う思い出だけだった。




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2011年10月23日

学問のすすめ

(6)車とラリー

おいらは大学二年になった。

例の仲良い従兄弟がおいらの家に赤いカローラに乗ってやって来た。従兄弟のダチが同じカローラを売りたいんで、どおするってぇ話をしに来たんだ。

カローラ1100、色は赤、走行距離八千キロ、四速コラムシフトで二十万円とのことだった。親父に相談したらOKが出た。従兄弟のダチがカローラに乗ってやって来た。程度は抜群だ。カローラをおいらの家の前に停め商談が終わり、取り説してもらおうと外に出た。

衝撃が全員に走った。

カローラの屋根がベッコリと凹んでいたんだ。近所のガキが商談中にカローラの屋根に乗って遊んでいたらしい。懇意にしていた近所の住人のガキだったので、文句も言えず泣き寝入りだ。カローラの室内に入り屋根を押し上げ何とか修復した。

深く心が傷ついた。

このカローラは大活躍する。四輪の整備を覚えたのもこのカローラだ

余談だが、大学卒業後、整備専門学校時代にラリーにも出た。それもノーマルでだ。有名なナイトラリーに出て九位に入ったこともあった。バリバリラリーチューンの車を抑えてだから、ちょっと得意だった。最初、皆怪訝そうな感じで見ていたが、九位と分ると皆不思議な顔して見ていた。ラリータイヤは買えなかったけどスノータイヤはいていた。

話を戻して、約二年位バンドをやってきたが、おいらの弟が通っていた専門学校の卒業パーティーでの演奏を最後に解散した。解散の理由は何となくである。未だに解散理由はハッキリしない。

おいらは解散後も単独でギターは続けた。時々相棒や他のダチと歌ったりもしてた。

相変わらずおいらの感性に合った曲を選びレコードを聴いてコピーってたんだ。ある時、急に吹っ切れたように一個一個の音が聞き分けられるようになり、レコード通りに弾けるようになったんだ。直ぐ相棒に来てもらい聞かせたら、ビックリしてた。後々相棒が吐露したんだが、焦ったり、ヤバイと思った。って言ってた。教えてたヤツに先を越されたら、おいらでも焦る。

人間って不思議なもんで、もっといい音で聴きたくなって来る。オーディオセットを上級機種にアップしたくなってくる。

学生のおいらにとって経済的に無理である。




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2011年10月22日

学問のすすめ

(5)ヤマハとモーリスとマーチン

どんどん上達していった。

フォークギターと言われるモノが欲しくなってきた。バイトして購入資金を貯めた。池袋のヤマハへギターを見に行った。咽喉から手が出るくらい欲しいギターが並んでいた。貯まる資金の予想がついていたので、資金の範囲内でギター選びをした。

以前、百貨店で親父が百円以内で玩具を買いなさいと言われていたことが役に立った瞬間である

色々迷ったが、音の広がりが良かったヤマハフォークギターFG180を選んだ。

しばらくして資金が貯まったんでヤマハフォークギターFG180を買った。その他ピックやカポタストなど買った。

当時のおいらは弦なんざ、付いてりゃいいって思ってたんで、予備の弦は買わなかった。切れたら買えばいいである。二人に見せた。早速調弦して弾いてみた。ピーター・ポール&マリーのギター構成はクラシックギターとフォークギターである。同じになった。益々練習に熱が入った。クラシックギターとフォークギターは良くハモってくれた。

歌のハモリも綺麗になっていった。三十曲位作曲もした。

その後もパーティーなど演奏を積極的にやったりした。FG180も弾き込んでいくうち、音が良くなっていくのが分る位鳴るようになっていった。楽器とは不思議なもんで鳴らせば鳴らすほどいい音になっていくんだ

このFG180は後にヤマハフォークギター赤ラベルThe FGとして最新技術を投入され復刻された。

後日ピーター・ポール&マリーのピーターが使用しているギターはアメリカのマーチン社製のギターだと判った。記憶が定かではないのだが、当時のヤマハでマーチンのD−28を見たんだ。シンプルなピックガードなので直ぐ判った。上級機種のD−45も見た。価格的に買えるはずもないのに店員に色々聞いたりした。聞けば聞くほど、心の中でいつか絶対買ってやると秘かに誓った

しばらくしてマーチンに似ているモーリスの12弦ギターを買った。モーリスの12弦もよく鳴ってくれた。今は壊れてしまい物置にしまってある。




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2011年10月20日

学問のすすめ

(4)学園祭

何曲か出来るようになった。ハモリもかなり様になってきた。

そんなある日相棒から衝撃的な発表があった。ある女子短大の学園祭で歌ってくれないかとのことだった。冗談じゃない未だ出来立てホヤホヤのバンドである。確かピーター・ポール&マリースタイルで始めて一週間か二週間位しか経っていない。ギターは二人ともクラシックギターである。フォークギターではない。女子はクソ度胸があって「いいわよ」って言いやがる。気の小さいおいらは難色を示したが、二人に押し切られた。学園祭まで二週間もない。ほぼ毎日練習した。何とか十曲位レパートリーが出来た。

学園祭当日がきた。ギター抱えて電車で行った。皆が見る。ちょっと優越感に浸る。でも不安だ。

短大に着いた。今でも何歌ったか全く覚えて無い位上がった。でも歌は上手くいってたらしい。最初に歌った歌で緊張が頂点に達し、頭の中が真っ白になってしまった。こんなことを予測してか、真っ白になった場合、歌もギター止めて一歩下がると決めていた。おいらは一歩下がり、曲が終わるのを待った。

その後はかなりリラックスでき、以後の曲は何とかこなせた。全曲が終了した。拍手されてホッとした。おいら達を呼んでくれた短大の女子が労いの言葉をかけてくれた。その中に凄く可愛い感じの良い子がいた。次のステージまでずっとおいらの傍にいてくれた。

この学園祭出演を切っ掛けに、いっそう皆練習に励むようになった。

前にも言ったが、おいらは音符が読めない新しい曲をやるときはレコードが頼りだ。時間が許す限りレコードを聴いた。レコードの溝が減ってきて音が悪くなってきた。それでも聞き続けた。ギターコードは押さえることが出来たので、レコードに合わせて何とか弾けるようになった。

後に、この耳が役に立つことになる。後にも先にも音を聞き分ける能力を培ったのは大収穫である




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2011年10月18日

学問のすすめ

(3)バンド結成

勉強の音楽は大嫌いで、音符も全く読めないおいらにとってギター買っても宝の持ち腐れだ。

しばらく部屋の飾り物になっていたが、中学からギターやってたヤツがいることを思い出した。貸本屋のダチだ。ヤツに話すと快く教えてくれることを承諾、ヤツは一浪中だった。

単純な発想だが、クラシックギターだからクラシックからやるかってぇんで「禁じられた遊び」と言う最もポピュラーな曲から練習をスタートした。全く出来ない。嫌になる位弾けない。

そんなある日、中学時代のクラスメイトであり、直ぐ近所に住んでいた女子に久しぶりに出会ったんだ。中一の時、指さして笑った女子だ。嫌なヤツである。でも本人は笑ったことは覚えてないらしい。近況など話しているうちにギターの話になった。あたしも習いたいってなことになり、相棒に話したらいいよってぇんで、三人でやることになった。

練習場所はおいらの部屋。おいらも女子がいれば、いいとこ見せようってぇんで、直ぐ弾けるようになると思っていたが、空振りに終わった。おいらも女子も全く進展しない。教え方が悪いのか、おいら達が才能ないのか、三人で悩んでしまった。行き詰まり、暗い雰囲気になっていった。

皆が帰った後、折角始めたギターを何とかしたいと本気で考えた。頭にいつもの閃光が走った。次の練習の時、二人に提案をした。

時代はアメリカ発であるがベトナム反戦などをテーマに日本でも少数であるが、シンガーソングライターが台頭し始めていた。アメリカではボブ・ディランジョーン・バエズなどの歌が日本にも紹介され始めた。ピーター・ポール&マリーもボブ・ディランなどが創った曲をアレンジしてレコード化していた。おいらが弟の部屋のラヂオで聞いたのがボブ・ディランの「風に吹かれて」をピーター・ポール&マリーが歌っていたものだった。ピーター・ポール&マリーのアレンジしたものだ。

そして二人に提案したのが、フォークソングやらないか、それもピーター・ポール&マリースタイルでどうかって聞いたんだ。二人とも大賛成だった。

おいらは近所のレコード屋に行きピーター・ポール&マリーのレコードや楽譜を買った。当時ピーター・ポール&マリーのレコードは少しずつ出始めていたが、楽譜はほとんど出ていなかった。あるだけのレコードと楽譜を買った。何にでも直ぐ夢中になる性格だ

ギターは不思議なことにドンドン上達していった。クラシックギターの練習が知らないうちに基礎を作っていたような気がする。女子はいつしかギターは弾かず、歌専門になっていった。

雰囲気だけは完全なピーター・ポール&マリーコピーバンドの誕生である

「風に吹かれて」からスタートした。音符が読めギターが一番弾けた相棒が一人一人のハモリをつけてくれた。おいらはコード弾きなので歌に専念出来た。少しずつアルペジオも覚えていった。女子は英会話を習っていたんで発音がいい。おいらは大の英語苦手だが、アメリカ大好き。女子の発音を見様見真似でモノにしていった




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2011年10月16日

学問のすすめ

(2)ビートルズとピーター・ポール&マリーと青い三角定規

大学が工学部とは言え勉強ばかりではない。当時の若者らしいこともやった。

大学でプレイボーイ誌を何の気なしに見ていた。2ページ全面に多数のモデルを配した派手な広告が掲載されていた。何の広告かは忘れたが、大迫力であった。その中に見覚えがあるヤツがいた。こっ、こいつは高校時代の軍手のヤツだぁーって心で叫んだ。モデルになっていた。

ド近眼の眼鏡をしてなかったので最初は判らなかった。

こいつは後に「青い三角定規」ってぇバンドを結成「太陽がくれた季節」が青春テレビドラマの主題歌になったこともあり、ビッグヒットしたんだ。単発ヒットで終わってしまったのが残念である。

ある日、直ぐ下の弟の部屋から心地よい音楽が聞こえて来た。何の気なしに弟の部屋を覗いたんだ。弟は当時流行語にもなった「ながら族」で、勉強しながらラヂオを聞いてるんだ。そのラヂオが聞こえて来たのだ。

この歌手何てぇのって聞いたらビートルズって言うイギリスの四人グループとのことだ。中々いい歌を歌うグループだ。しばらく聞いてると更に心打つ歌が始まった。弟に「なっ、何んてぇグループ」って慌てて聞いた。

ピーター・ポール&マリーってぇフォークグループとのことだ。

この日からビートルズではなく、フォークソングとピーター・ポール&マリーに夢中になった。洋楽は当時の米軍放送(確かFEN)から最新のモノが聞けた。

又、ある日のこと弟の部屋からギターの音が聞こえてきた。弟の部屋に顔を出すと、ギターを弾いていた。当時流行っていたベンチャーズのテケテケテケってぇヤツを弾いていた。よく見たらクラシックギターでエレキギターではない。エレキは高くて買えないので、友人からクラシックギターを買ってきたとのことだ。

その時、何となくおいらにそのギター譲ってくんねぇかって弟に聞いたら、いいよってぇんで二千円で譲ってくれた。弟も買ったはいいがクラシックギターでは物足りなかったようだ。

おいらの弟は一度死掛けたことがある。ある休みの日おいらは自分の部屋で昼寝してた。弟は友達と掘りごたつのある部屋でテレビを見ていた。おいらは夢か現実か判らないが、変な予感がして眠りから覚めた。何の気なしに自分の部屋を出てテレビのある部屋に向かった。扉を開けた途端、尋常じゃない臭いがした。テレビが点いているのに弟と友達がぐっすりと寝込んでいる。弟を起こそうとしたが全く起きない。直ぐ一酸化炭素中毒と気付いた。冬で寒かったこともあり、窓を閉め切っていたのだ。直ぐ窓を全開にし、弟達を窓際に引きずり出し、深呼吸させたんだ。

弟達は息を吹き返した。おいらん家の掘りごたつは練炭が熱源だった。おいらが気がつかなかったら弟達は十中八九生きていなかったと思う。この出来事を親父に報告したら、これを機会に親父は電気の熱源に変えた。一酸化中毒は恐ろしい。

その後一酸化中毒について調べたことは言うまでも無い




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2011年10月15日

学問のすすめ

(1)経営工学

機械が大好きなおいらだったが機械科へは行かず、生産管理を学ぶ経営工学科へ入った。

ずーっと機械科へ行こうと考えていたおいらだが、入学案内を見ているうちに経営工学科へ行こうと決めた。経営工学は幅広い知識がいるので、知りたがり屋のおいら向きだと思った。

相変わらず人見知りのおいらに中々友達が出来ない。大学に通い始めて一ヶ月目、おいらに声をかけてきたヤツがいた。背がでかくガッシリした身体つきのヤツだった。地方から来ているらしく、少し訛りがあった。どこから通ってんのって聞いたら原宿と答えた。親父が勤めている会社の厚生施設の学生寮だとのことだ。帰り道なので途中下車して遊びに行くことにした。

この頃の原宿は若者の町ではなく、閑静な住宅街だった。竹下通りも普通の住宅が並んでいた。寮に着いてヤツの部屋に行ったが、とても綺麗な部屋だった。

おいらの家にもよく遊びに来た。近所に住んでるおいらのダチ達とマージャンに興じる事もしばしばだ。25時間マージャンなんて馬鹿なこともやった。この頃皆タバコ吸ってたんで、晩くなるとタバコ屋が閉まってタバコが買えなくなる。シケモクをよくやった。

今考えると、もの凄く身体に悪いことばかしやってた。

そして、こいつが卒業間近にとんでもないことをしでかすんだ。そして、おいらは手伝わされることになる。

大学一年は高校の延長みたいな授業だった。二年中盤から少しずつ専門科目が増えて大学生になったんだと自覚出来てくる。三年になるとゼミの選択があり、卒論の準備に入る。

経営工学ってぇ学問を学んでると、気になる科目に工程管理や品質管理があった。これらの科目は心底面白いと思った。大学に進学した甲斐がある。更に学んでいくと価値分析と言う、おいらが求めている学問と言うか項目に当たった。

卒論のテーマにした。

品質管理や価値分析は今のおいらにとって無くてはならないものとなっている。

林教授、宮田教授、佐藤教授お世話になりました。

そして有難うございました。




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2011年10月14日

多気筒化と免許

(8)プレイボーイ創刊

バイクの方も盛んだった。

バイク通学のほとんどはモペットなど小型バイクが多かったが、トライアンフボンネビルに乗って来るヤツもいた。

朝と放課後に駐輪場で盛んに情報交換が行われていた。趣味の世界では先輩も後輩もない。ワイワイガヤガヤ好き勝手なこと言い合ってる。暗くなるまで騒いでいた。人のいい用務員に帰宅を促され、一斉に帰る事もシバシバあった。好きなことに時間の経過は無いのだ。高校生活で最も楽しい一時だった。

一時期通学をバスにしたことがある。

一緒に帰るヤツの中に気になるヤツがいた。牛乳瓶の底みたいなド近眼の眼鏡かけて、どう言う訳か軍手をしてるんだ。気になって仕方がなかったので、ある時そいつに聞いてみた。

毛糸や革だと、汚れを嫌って地面に手をついたり出来ないだろ、軍手だったら汚れを気にしないだろって言うんだ。何となく納得した。合理的なヤツだと思った

それから、そいつとは一緒に帰ることが多くなった。その時、こいつが後に有名人になろうとは思わなかった

プレイボーイが創刊された。教室には最新の平凡パンチとプレイボーイが必ずあった。そして、この二誌からあらゆる情報を得ていた。

バイクやバイト三昧で成績が落ちてきた。親は「おいどうした」ぐらいで、あまり心配していないようだった。担任の先生に大学は絶対無理だって言われた。

ところがである。救世主が現れたんだ。数学の教諭でメチャクチャおっかない先生だ。数学の授業が終わった時、おいらを名指しで先生の部屋に来いと言うんだ。

ヤバイ、怒られると思った。

仕方なく先生の部屋に行った。お前、最近成績落ちてるがどうしたんだとの事だ。オッカナビックリ、バイクとバイトの事を話したんだ。全く否定しないんだ。好きなことで自立することは大切だと言われた。でも、そんなことで成績が落ちるヤツじゃないとも言われた。今日から放課後毎日一時間個人的に補習授業をするので覚悟しろと言われた。

大学を受験するまで補習授業は続いた。相変わらず担任は大学は絶対受からないの一点張りだ。お前が大学受かったら逆立ちしてやるとまで言われた。嫌なヤツだ。

第一志望の大学に受かった。逆立ちしてもらおうと思ったが、大人気ないんで止めた。入学手続きに必要な卒業証明書を弟に取りに行ってもらった。担任が受かったのって驚嘆してたそうだ。ざまーみろってぇんだ。

以後一度も高校へ行ったことはない。楽しいはずの青春時代が暗い青春であった。数学の吉川先生お世話になりました。そして有難うございました。あの時、吉川先生に補習授業してもらわなかったら十中八九人生が変わっていたと思う。

いよいよ大学生活が始まる。期待感で一杯だ。高校で思う存分好きな勉強が出来ず、受験勉強だけだったからだ。

勉強は基本的に嫌いだが、やりたい学問はある




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2011年10月12日

多気筒化と免許

(7)VANとJUNと平凡パンチ

高校は中学に比べオシャレなヤツが多くいた。

当時の情報誌、平凡パンチが創刊されると情報が校内を飛び交う。休み時間になるとアメリカントラッドだとかコンチネンタルだとかアイビーなどの横文字も飛び交う。

冬のある日、学生服の下にセーターを着ていった。池袋で何の気なしに色が気に入ったので買ったものだ。教室が暑くなったので学生服の上着を脱いだんだ。皆が「オーッ」って喚声とも言える声が聞こえた。なっ何って聞いたら、おいらの着ているセーターがVANジャケット製だったのだ。

ってな訳でおいらのセーターがVANだと判った。当時の高校生はファッションに敏感なのだ。単純なおいらは褒められると調子に乗るタイプだ。おいらは器械体操をやってたこともあり、肉体に自身があった。池袋のユウキヤが行きつけの店だ。VANJUNも扱っている。エドワードってぇブランドも扱っている。色々着てみるが、おいらにはJUNがしっくり来る。JUNは身体の線が強調されるのだ。その後JUNに統一した。当時はコンチネンタルよりアイビールックが全盛でJUNよりVANが台頭していた。

ヒネクレもののおいらはJUNだ。

だが靴はバスケットシューズを履いていた。

平凡パンチで以前アメ横で見たハイカットの靴がコンバースだと知った。おいらのバスケットシューズはコンバースではない。見た目はコンバースにそっくりなオニヅカタイガー(現アシックス)製だ。

コンバースは高くて買えない。でも履いてみたい。ある日、近くの駅前にある靴屋を何気なく見てるとコンバースみたいのがあるではないか。店の人にサイズを告げ履いてみた。ピッタリだ。買いたい。恐る恐る店の人に価格を聞いてみた。二千円です。って返ってきた。エエッ本当って思った。買うことにした。その時初めてオニヅカタイガーの存在を知った。とても履き易い靴だった。オニヅカタイガーのハイカットズック靴は再販されたと聞く。今はオニヅカの方が履き易かったにもかかわらず、憧れのコンバースを履いている。現在コンバースの方が安いとは皮肉なもんだ。

コートはステンカラーが流行っていたので、流された訳ではないが、VANジャケット製を着ていた。

今から考えるとチグハグなファッションだったような気がする。




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2011年10月10日

多気筒化と免許

(6)バイトとシボリハンドルと東京堂

東京堂との付き合いが始まった。

最初はモーターロイ、次が四百円で売っていた革手袋だ。四百円の革手袋は直ぐに縫い目が解れた。裁縫も得意だったので補修して使った。

東京堂のおやっさんに「かなわねぇよな、四百円の手袋をここまで使われちゃ商売上がったりだよ」ってニコニコしながら言われた。冗談半分本気半分に聞き取れたので複雑な気持ちになった。

ある時、東京堂に行ったらおばちゃんが黒いヘルメットを持って、おいらの傍で安くしとくから買わないって言われた。金のないおいらが来るのを待っててくれたんだ。アライの黒艶消しジェットタイプのサイズLだ。おいらにピッタリだし黒の艶消しも好きだ。

でも何となく艶消しの割りに艶がある。おばちゃんに安くしてくれる理由を聞いた。艶消しなのにワックスかけちゃったので定価じゃ売れないとのことだった。六千円が四千円でどうだとのことだった。家に帰り貯金箱やら何やらと金を掻き集め、そのヘルメットを買った。初めてのヘルメットだ

しばらくして東京堂に行くとおやっさんが二代目に代わっていた

アルバイトは親父がサラリーマンやってた会社のバイトしかしたことなかった。東京堂に通う内、バイトしてくれないかと誘われた。断る理由がない。学校から帰るとバイト、休みの日は朝から晩までバイトバイトだ。

ある時若い客がハンドルが遠いので何とかしてくれと頼まれた。ハンドルを絞ってやった。口コミで次から次へと絞ってくれ客が殺到した。

客の大半が暴走族って言われる前の飛ばし屋だった。アサヒ風防を付けるヤツも増えてきた。絞りハンドルにそのままでは付けるのは面白くないってぇんで、風防も絞ってやった

馬鹿うけだった。

又もや客が殺到した。大分後になるが風防は最多で月間四百枚位取り付け販売した。朝から晩まで二代目のおやっさんと取り付けに励んだ。

おいらが大学受験でバイト辞めた後アサヒ風防東京堂オリジナルが発売された。いつしか店も現在のところに移って行った。新しい店の二階ではツナギなど革製品を作っていた。

俳優のピーター・フォンダが来日したとき東京堂で革のジャケットなど買って行ったとは二代目おやっさんの自慢の一つだ。

初代も二代目も夫婦で店を営んでいたが、おいらにとっていい人だ。初代はお亡くなりになったが、二代目のおやっさんは今も元気に海外を行ったり来たりしている。若き三代目も頑張っている。三代目は、おいらがバイトしていた時、店の中を走り回っていた。ちっちゃくて漫画のコナンみたいに可愛い子供だった。

今も童顔は変わらない。




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2011年10月9日

多気筒化と免許

(5)ツーリング

バイクが調子良くなるとツーリングに行きたくなる。初めてのツーリングはソロツーリングだった。奥多摩へ行った。小河内ダムから先は未舗装で砂利道。

道幅も狭くガードレールなど無かった。臆病なおいらはダムを終着点とし、折り返した。ダムまでのコーナリングを楽しんだ。後輩達とも色んなところへ行った。一番愉快だったのは三菱のシルバーピジョン125ccだ。いろは坂で曲がり切れず側溝に落っこちたんだが、側溝をしばらく、そのまま走っていたんだ。可笑しくて助けるどころではない、しばらく一緒に走りながら見ていた。後で助け出したんだが。シルバーピジョンの重たかったこと、確か四人で持ち上げたと思う。

中学時代の級友とツーリングした時に面白い現象に出会った。

級友はブリヂストンのBS90に乗って来たんだ。急にエンヂンが止まるんだ。メカは皆おいらに任される。先ず定石通りプラグを外して火花の確認をする。火花が飛ばない。予備プラグは持ってない。

更に良く見るとプラス極とマイナス極がつながっているではないか、ブリッヂと言われるヤツだ。ブリッヂを取り払い、持って来た金ブラシで磨いてやった。プラグを取り付け、キック一発でかかった。

当時混合ガソリンは粗悪品が出回っており、ブリッヂはよく起こっていた。その後も何回か止まったが、理由が解っていたので、級友が勝手にプラグを外して掃除して解決していた。当時のバイクはつまらないトラブルが多かった。

おいらのCB72なんざワイヤー類がよく切断した。一番多かったのがクラッチワイヤーとアクセルワイヤーだ。

CB72のアクセルワイヤーはハンドルの中を通る、中通しってぇタイプだった。一文字ハンドルと言う事もあり、取り回しが結構きつかった。これが原因か否かは判らないが、とにかくよく切れた。クラッチワイヤーは取り回しを見ても、そんなにきつくないと思われるのだが、よく切れた。今考えると材質が良くなかったのかもしれない。最初に切れた時は予備など持ってなかったので、持っていた針金に連結して引っ張りながら帰った。

クラッチワイヤーが切れた時はギアチェンジテクニックを駆使して乗り切った。クラッチを全く使わないのだ。停まる前にニュートラに入れて停まる。走り出す前にバイクを降り、押しがけの要領でバイクを押す。弾みがついたところでバイクに飛び乗りミッションをセカンドに入れて、通常通り走るってぇことだ。

バイクのミッションならではのテクニックだ。昔のワイヤーにはグリスニップルが付いていてグリスアップが出来た。ワイヤーのインナーとアウターの間にミシン油やモーターオイルを何とか入れるのだが、上手くいかない。ワイヤーの材質もステンレスではなく鉄製だ。露天に駐輪して雨でも降れば一発で錆びてしまう。だからワイヤーのインナーとアウターの間をグリスでシールドしちゃおうってぇ魂胆だったと思う。

グリスアップすると長持ちする。アクセルワイヤーには付いていなかった。クラッチワイヤーとブレーキワイヤーだけだ。と言う事で工具箱をリアシートにくくりつけ、その工具箱にはスペアーのワイヤーを入れた。

車載工具で大体修理は出来たが、最悪の事態を考えて若干の工具を持参するのが常だった。




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2011年10月8日

多気筒化と免許

(4)モーターロイ

高校に通う傍ら学校の帰りに東京堂に寄ってみた。

この頃の東京堂は合羽屋からバイク用品屋へと転身していた。初代東京堂は今のお店の三分の一位の小さな店だった。夫婦二人で営んでいた。

店内を見回すとモーターロイってガソリンタンクに投入する添加剤が目に留まった。小さな半球形の円盤型の鉛の様な形状をしている。排気量によって投入個数が違うのだ。ホンダCB72タイプ2は250ccなので一個で良かった。記憶では八百円位だったと思う。

Uコンを止めたが、飛ばしたことの無い完成機があった。模型と工作誌の売買欄の売りたしに出していた。それが二千五百円で売れた。だからモーターロイ八百円でも買えたのだ。

早速燃料タンクに投入した。しばらく走ってみたが何の効果もなかった添加剤に対する最初の疑惑を抱いた時だ

もう返品する訳にはいかない。

モーターロイの取説を繰り返し読んでみた。投入後モーターロイはタンク内壁にぶつかるなどしてコロイド状になり、燃料と共にキャブレターからシリンダーへと入り、シリンダー内壁に茶色いメッキをすると書いてあった。

何百キロか走った頃、エキパイを外して排気口を覗いてみた。真っ黒で茶色になんかなっていない。

騙されたと思った

又しばらく走ってモーターロイのことを忘れた頃、エンジン音が小さくなっていることに気付いた。アイドリングも少しずつだが下げられるようになっていた。

規定の1500rpmまで下げられる様になっていた。エキパイを外し排気口を覗くとこげ茶色になっていた。モーターロイの効果が出ている

この添加剤、凄いと思った。

その後はバイクを買う度にモーターロイを投入した。更に凄いことも発見した。

取説に書いて無かったが、タンクの内側が錆びないのだ。

今このモーターロイは輸入されていない。話に聞くところモーターロイだけで成り立っていた会社らしいのだ。




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2011年10月6日

多気筒化と免許

(3)CB72とCL72

CB72には250cc360°クランクのタイプUと180°クランクのタイプTがあり、車検がある自動二輪305ccCB(アップハンドル仕様はCP)77にもタイプTとUがあった。

共にタイプTはギアが高速セッティングなのでトップギアの最低速度が60km/hだった。60km/h以下で走ろうとするとエンヂンがノッキングするんだ。タイプT、タイプU共に乗ったが、とても良いバイクだった。

CB72と同じエンジンを搭載したスクランブラー(今で言うオフロードタイプ)CL72ってぇバイクが登場した。

これもタイプTとタイプUがあってタイプTの排気音は独特で皆欲しがった。おいらもその一人でエンジンとフレームがCBと共通だったので、東京堂にCL72のマフラーを頼んだ。

しばらくしてマフラーが届き、早速取り付けにかかる。付いてたマフラーを外し、CLのマフラーを取り付けた。期待に胸膨らませセルのボタンを押した。全く期待外れの音だった爆発間隔が違うので排気がハモらないのだ。ガッカリだが、現実を受け入れるしかない。

ハンドルも一文字ハンドルからCLと同じブリッヂ付きアップハンドルにした。いい体験もした。一文字ハンドルに比べアップハンドルはツーリングでは疲労感も無く、とても運転し易かった。

後にセパハンを付けたり、色んなハンドルを試す切っ掛けにもなった。

ホンダCB72タイプU250ccの再生をスタートさせる。エンヂンオイルを点検すると真っ黒だ。行きつけのガソリンスタンドでエンジンオイルを買った。少し暖気をしてエンジンオイルを交換する。

そう言えば左右のマフラーから若干白煙までは行かないが白っぽい煙を吐いていた。オイル上がりか?エンジンオイルを交換すると治まった。

おいらは疑り深いのでオイル上がりの疑いは晴れなかった。




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2011年10月4日

多気筒化と免許

(2)独学

クズ屋のおやっさんは近所と言う事もあり、懇意にしてくれた。良さそうなバイクが入ると教えてくれた。

山口オートペット50、ホンダC110スポーツカブなど何十台も買った。一番高かったのが、C110スポーツカブで五百円だった。

このスポーツカブは排気量を偽って55ccで登録した。スポーツカブには55ccのC115ってぇラインナップがあった。

全て独学で学んだ知識で整備し乗っては整備を繰り返し、調子良くした。乗り飽きると高校の後輩に売ってやった。調子がいいんで飛ぶように売れた。それを資金に整備工具を買い増していった。クズ屋のおやっさんに欲しいバイクの車種を告げるようになった。おやっさんは快く引き受けて探してくれた。おやっさんの所に無いと知り合いのクズ屋を紹介してくれた。おやっさんの所で業者間で仕入れればいいのに、仕入れると利益を上乗せして高くなるので直接紹介してくれたんだ。小遣いの少ないおいらにとって有難いことだ。

高校二年の時、免許も自動二輪となり、もう少し大きなバイクに乗りたくなっていた。

親父が家を建て替えた。自分の部屋が持てるようになった。庭に車一台が入るスペースも生まれた。バイクの整備が十分出来る。これからは道路で整備しなくてすむのが、凄く嬉しかった。

しばらくして親父がホンダCB72タイプ2一文字ハンドル仕様を買ってくれた。中古で五万円だった。これがとんでもなく調子の悪いバイクだった。アイドリングが2500rpmで納車のときバイク屋のおっさんがキャブをしきりにいじって調整していたがアイドリングは下がらなかった。苦し紛れに、この程度のバイクではこんなもんですよって言われた。親父と二人乗りして帰宅した。その日は日が暮れて暗くなるまでバイクを磨いていた。

高校にバイクで通学することになった。

この当時高校はバイク通学禁止なんてぇ野暮な規則は無く通学手段は自由だった。




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2011年10月2日

多気筒化と免許

(1)レースへの憧れと東京堂

浅間火山レースのようなオープンサーキットから時代はクローズドサーキットへと移っていった。色々なサーキットが出現した。船橋、富士、鈴鹿などだ。回転パワーを得るために多気筒化が進んでいた。特にホンダの多気筒化は凄まじいものがあった。

レーシングマシン50ccは2気筒、125ccは5気筒、250ccは何と6気筒、500ccは4気筒ときたもんだ。特に50ccは複変速機付き12段変速である。ホンダの市販の軽トラックT360はDOHC4気筒4キャブレターと今では考えられないような軽四輪を造っていたんだ。その頃スズキは50cc2サイクル3気筒のレーシングエンジンを造ったが、確かレースに出て来なかったと記憶してる。サーキットではホンダのジム・レッドマンとヤマハの伊藤史郎との戦いが凄かった

免許(原付二種)を取ってもバイクは叔父貴からの借り物だった。休みの日の朝に借りに行って夕方に返しに行くってなことを繰り返していた。おいらのバイクじゃない。乗って磨くだけだ。つまらない。欲求不満になる。

この当時の免許の種類は原付一種、原付二種、軽二輪、軽三輪、軽四輪、自動二輪、側車付き二輪免許、自動三輪、普通免許などがポピュラーで、その他二種免許や大型や特殊免許に細分化されていた。

ある時直ぐ近所にあるクズ屋のクズの山を見ていたらクズ屋のおやっさんに声をかけられた。君はバイクに興味あるのかって言われた。首を縦に振った。矢継ぎ早に免許は何持ってるのって聞かれた。原付二種とボソッと言った。いいバイクがあるよって、スーパーカブみたいな黒いバイクを持って来てくれた。このバイクがおいらのマイバイクの第一号となる。ブリヂストンのBSチャンピオン2サイクル、53cc、強制空冷、レッグシールド付きバイクだ。外見はどう見てもスーパーカブのパクリの様に見える。おいらにとってそんな事はどうでも良い事だ。値段を聞いた。百円でいいって言うんだ。おいらの小遣いで買える。商談成立だ。登録書類をもらい、登録の仕方など教わった。タイヤに空気を入れてもらい押して帰った。エンジンはクズ屋でかけて問題なかったので、バイク誌で学んだ知識を駆使して各部を点検した。チェーンが少し緩んでいたので調整した。その他問題のあるところはなかったので、裏庭に駐車した。

区役所に登録に行った。この当時の役人はもの凄く偉っていた。偉そうに指示されるまま書類に書き込み登録終了。待っているとナンバーが交付された。ここまで一銭もかからない。当時強制保険の制度は無かったので、バイクは事故さえ起こさなければ低経費で乗れた。

意気揚々と帰宅。早速ナンバーを取り付ける。スイッチオン、一発で始動だ。確かスーパーカブと同じ三速ノンクラッチタイプのミッションをローに入れる。左右を見渡し左腕を直角に曲げる。当時、ウインカーは装備してもしなくても良かった。おいらのバイクには付いていなかったので手信号だ。夢にまで見たおいらのバイクだ。

気持ちよく走る。取り合えずガソリンスタンドへ行く。分離給油式は未だ世に出ていなかった。混合ガソリンを入れる。混合ガソリンはお客がスタンドの人に何リッターって告げると、手回しで入れてくれるものだった。後に分るのだが、粗悪ガソリンが多かった。おいらが入れてるガソリンスタンドの混合ガソリンは良かった。

1リットルって告げ、スーパーカブの様にシートを上げタンクキャップを開けて入れてもらった。よく覚えてないが三十何円か四十何円かを払った。確か3リッターか4リッターで満タンになる。

嬉しくて近所を走り回った。新品のナンバーが眩しかった。走り回っていると気になるお店が目に留まった。後に長い付き合いになる東京堂だ。当時は合羽を専門に売っていた印象がある。初代の東京堂の店主の頭は職人刈りの江戸っ子風。北島三郎風だ。

未だこの時は通り過ぎただけだ。




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2011年10月1日

新たな時代

(4)やっぱり映画はいい!

ヤツと映画もよく見に行った。

マカロニウェスタンとか言うわけの判らない西部劇が上映されるってぇんでヤツを誘って見に行った。この映画はアメリカ映画では無く、イタリア製の西部劇なのでマカロニウェスタンと呼ばれた。

「荒野の用心棒」と言うローハイドに出ていたクリント・イーストウッドが主演の映画だ

とにかくストーリーなんてどうでも良い位、拳銃の打ち合いばかりの映画だ。何も考えないで見れる映画で面白かった。何作か作られイタリアの西部劇スターも生まれた。勝新太郎の座頭市も見に行った。プレスリーの映画も見に行った。このプレスリーの映画は真紅のホンダCB77(305ccタイプT)をプレスリーが乗って旅する青春映画だってぇだけで見に行った。題名は「青春カーニバル」だったと思う。ホンダCB77のリアサイドに特別に創られたギターラックが付いていた。そのラックに愛用のギターを積んで旅をするんだ。小林旭の「ギターを抱えた渡り鳥」みたいだ。

そんなある日、おいらの町の洋画館平和シネマに「大脱走」って言うのが来るってぇんで見に行ったんだ。スティーブ・マックィーンが出演するらしい。再上映なので安かった。マックィーンがバイクで駆け抜けるシーンは圧巻だった。

スティーブ・マックィーンの素晴らしいとこは道具の使い方が巧みなとこだ。「荒野の七人」でユル・ブリンナーが馬車で墓に向かう時、マックィーンが助手を志願するんだ。その時、水平二連の散弾銃の銃身と銃床を切り詰めたヤツを携え馬車に乗り込むんだ。水平二連の散弾銃に弾をこめる時、弾を耳の側で振るしぐさをする。散弾がこめられているかの確認をするしぐさなのだ。西部開拓時代のモノは不良品が多く散弾の弾も不発があったらしい。そんな時代背景を弾を振るしぐさで表現したのだ。

後日談として台本には無かった演技らしい。

主役のブリンナーを完全にくってしまった。台詞ではなく演技でだから凄い俳優だ。「タワーリングインフェルノ」では切断バーナーとロープの使い方が巧みだつた。「ゲッタウェー」ではポンプアクション散弾銃を空砲なのに実弾が入っているが如く撃ちまくるシーンが圧巻だった。刑事モノの「ブリット」ではマスタングGTクーペをブッ飛ばすシーンが好評だったが、映画史上初めてのカーアクションだったらしい。

この映画以後カーアクションの映画が多くなった。

マックィーン最後の作品「ハンター」ではコルトガバメントを撃つシーンで空砲にもかかわらず実弾を撃つかのように演技した。その他スティーブ・マックィーン出演する映画は「ブロブ」を始めほとんど見たが、本当に凄い俳優だった。

もっと長生きして欲しかった。




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