_

円陣家至高油類商

HOME  » 油職人今昔話

過去の油職人今昔話

2011年9月29日

新たな時代

(3)ポップ

免許を取った。

浅間火山レースに出ていた叔父貴からモーターサイクリスト誌やオートバイ誌の古くなったヤツをもらった。むさぼる様に読み耽った。エンヂン飛行機どころではない。一分の一のモデルだ。実際に乗って操縦出来るのだ。又もや夢中になった。

モーターサイクリスト誌かオートバイ誌か忘れてしまったが、読んでいると何か凄い日本人の記事が出ていた。米軍基地でドラッグレースってぇのが行われていて、米軍の人に頼まれ650ccのトライアンフをドラッグレーサーに改造して行く過程の記事が載っていた。

ポップの愛称で呼ばれている吉村と言うおっさんだ。真っ黒に日焼けした顔が精悍なおっさんだ。読んでいくうちに凄いおっさんだと思った。この日からこの記事が出ていた雑誌はおいらのバイブルとなった。

高校一年の時同級となり、仲良くなったヤツがいる。こいつとはよく遊んだ。

この頃テレビでは三匹の侍や忍者モノが多数放映されていた。忍者モノの中に石川五右衛門を扱ったモノがあった。石川五右衛門が忍者だったと言うのも面白い設定だった。体育の授業で剣道と柔道をやった。剣道の時間は忍者よろしく竹刀を逆手に持って、ジャンプしながら切りつけたりしていた。柔道の時間は巴投げをかけてもらい、宙返りして見せた。体操部に所属していたので、身が軽かった。

三匹の侍も放映された。




▲ ページトップへ

2011年9月27日

新たな時代

(2)鎌さんとエンヂン飛行機との別れ

いつものように飛行場で練習していたら鎌さんが自転車ではなくスーパーカブに乗ってやって来た

荷台に飛行機を積んでいる。おいらが最新作のエンヤ35搭載のオリジナル曲技機を飛ばしている時だった。この曲技機はおいらの総力を結した力作である。模型と工作誌上で発表して来たモノを全て盛り込んだ最新鋭の機体だ。特に特殊な翼の形状の効果なのか抜群の操縦性を誇った

以前この翼型の試作機を鎌さんが飛ばした時「お前こんな敏感(操縦)な機体飛ばしてるのか」って言われた。鎌さん曰く、曲技の性能は抜群だが、水平飛行時の安定を保つのが大変だ。不安定と言う訳ではないが、手の動きが直伝わるので操縦が難しい。これが鎌さんがおいらに漏らした感想だった。

それだけではない。こんだけ敏感に飛行姿勢を変化させられるのにエンヂンに全く息つきが無いループ+隔離板の威力も凄いとも言っていた。

鎌さんがおいらの飛ばしているのをしばらく見ていた。あらん限りの飛行技術を駆使して飛ばした。鎌さんが中々飛ばさない。どうしてかを尋ねると、結婚するんで俺は引退するって言うんだ。後はお前に引き継ぐ、このまま行けば今後五年間は全日本チャンピオンでいられる。その後はお前の努力次第とも言われた。凄く悲しかった。楽しかった六年間が走馬灯のように巡った。でも仕方ない。鎌さんは一回も飛ばさず飛行場から立ち去った。

その後一度も鎌さんと会ったことはない。今思えば、鎌さんはおいらの機体創り、操縦技術の上達ぶりを確信しての引退決意だったと思う。

そして、おいらはチャンピオンにならなかった

鎌さんと別れて直ぐエンヂン飛行機を止めてしまった。新たな魅力あるモノが出現したからだ。オートバイだ。運転免許が取れる歳になったのだ。

とっくに失効してしまったが、日本模型航空連盟登録証No.368は更新すること無く机の引き出しに眠っている。

鎌さんの期待を裏切ってしまった。今、もし会えたら謝りたいと思ってる。そして油職人としてのおいらの基礎を創ってくれた人だ。有難うございました。とても感謝しています。

フジエンヂンも無くなってしまいましたが、あの時の技術屋さんゴメンナサイ。模型屋のおやっさんにも大変お世話になり感謝してます。そして全てのエンヂン飛行機関係者に感謝しています。

永堀さん本当に有り難うございました。




▲ ページトップへ

2011年9月25日

新たな時代

(1)ワークスと未来の出会いの予感

おいらも高校生になった。相変わらずエンヂン飛行機三昧の日々を過ごしていた。

目前に迫った大島模型主催、フジエンヂン協賛の競技会が迫っていた。新しい曲技機も出来上がった。試験飛行に出かけた。今まで一回もやったことの無い墜落を経験した。競技会まで一週間しかない。途方にくれた。墜落した機体の主翼が真っ二つだが、継ぎ合わせれば何とかなると決断。胴体も新たに創り、本格的曲技機製作は間に合わないのでOS29を搭載した練習機タイプを創った。競技会に間に合った。

当日事務局に参加申し込みに行くと、参加を断られた。理由は当競技会は格式があり、練習機タイプの参加は出来ないとのことだ。ガッカリだ。周りを見渡すともの凄く綺麗な純曲技機が数十機来ていた。おいらと弟以外は全員社会人。おいらの練習機を見て笑っていた。弟は曲技機を持ち込んだのでエントリー出来た。

落ち込んで座ってると鎌さんが来賓として到着した。どうしたんだと聞かれたんで経緯を話した。鎌さんが事務局で大島模型の人と話してる。鎌さんが機体持って事務局に来いと言うので行ったら参加が了承された。コネってぇヤツだ。大島模型の人が何人かの常連さんに了解を得ての参加了承だ。こんな練習機で勝てる訳無いと思ってのことだ。

五番目だったか六番目だったか忘れたが順番が来た。エンヂンは一発で始動。離陸後ルールに従ってスタントをこなし着陸。事務局がざわついてる。鎌さんが笑っている。

おいらと弟を入れて30人がエントリーしていた。10人目が終わった頃、残りの20人が帰ってしまった。何がおこっているのか分らない。急遽成績発表となった。なっ何とブッチギリで優勝してしまった。弟は六位入賞だ。ざわついてた原因はおいらの優勝だったんだ。まさか汚い継ぎ接ぎだらけの練習機が優勝するとはおいらも思っていなかった。

フジエンヂンの技術屋みたいな人が寄って来た。名刺と当時発売目前だったフジ29と35のエンヂンを持って来て、今後エンヂン供給をするんでオリジナル曲技機に搭載して競技会に出て下さいって言われたんだ。今で言うワークスってぇヤツだ。何だか責任を感じる

この時大島模型に関わり深い人がいることに気が付かなかった。勿論現在も会ったことは無い若くして亡くなられたので、これからも会う事は無い。エンヂン飛行機ではなくラヂコンボートとラヂコンカーで頭角を現していた。確か歳も同じだと思う。

今思うと何か運命を感じる

ただジワジワとおいらと鎌さんに変化が訪れて来ていることに気付いていなかった。




▲ ページトップへ

2011年9月24日

科学

(11)本物?

アメ横は外国製品がいっぱい、目の保養になったが当時の舶来品は高価で中々手が出なかった。

モデルガンのMGCは御徒町、アメ横には中田商店ってぇのがあってモデルガンやガン用品や軍用品を扱っていた。アメ横に行くと必ず中田商店に寄った。以前ウェスタン風の彫刻されたベルトを買ったことがあった。

いつものように立ち寄ると見慣れないモデルガンがショーケースの上に置いてあった。箱にワルサーPPKと印刷されていた。蓋を開け触ってみた。当時のモデルガンは亜鉛合金の金属製なのでズシリと重い。何となく引き金を引いてみるとスライドが後退した。本物みたいだと心の中で叫んだ。本物なんて見たことも無いのにである。

カートリッヂが装填されていなかったのでスライドがロックされたままになった。困った。どっどうすればいいのだ。店員が寄って来た。怒られるかと思って、恐縮してると、店員は手馴れた様子でマガジンキャッチを押しマガジンを抜いた。スライドを更に後ろに少し引くと元に戻った。感動した。もう玩具じゃない。価格を聞いた。三千円ちょい位だったと思う。買うことにした。

帰って親父や弟達に見せた。早速火薬をカートリッヂの先端に装着し、マガジンにカートリッヂを装填した。七連発だ。引き金を引くとパンと火薬が弾け、もう一度引き金を引くと前に撃ったカートリッヂが排莢され、次のカートリッヂの火薬が弾ける、と七発繰り返される。七発撃ち終わるとスライドがオープンとなり全弾撃ち終わった事を教えてくれる。

又、ある日アメ横に向かい中田商店に行く。いつもの雰囲気と違う。テンガロンハットをかぶり腰にはホルスター、ホルスターにはコルトSAA拳銃、革のベストを着て、長髪で髭のおっさんがいた。直ぐ分った。あのワイルド・ネモ・ヒッコック、根本氏だった。接客している。中田商店の社員なのか?、よく分らない。マッどうでもいいことだが。

高校受験が近づいてくる。たまたまだが綺麗な女子と同じ高校を受けることになった。更に力を入れて勉強に励んだ。

ところがである。頑張ったのに、おいらは落っこっちまった。受かっていればと思ったが後の祭りだ。弱り目に祟り目、超受験高校に入ることになる。

暗黒の時代の幕開けだ




▲ ページトップへ

2011年9月23日

科学

(10)受験戦争

綺麗な女子のお陰で成績はどんどん良くなっていった。単純なヤツである。

ある日担任の先生においらと綺麗な女子が呼ばれ、教壇に立たされた。良い事なのか悪い事で呼ばれたのか分らないが、顔面が真っ赤になっていた。顔が熱かった。先生は二人の成績が急速に良くなったので褒めることと皆へのカツ入れのためだった。と後で聞かされた。

そんな事どうでも良かった。隣に立つ綺麗な女子の顔もほんのり赤かったのだ。すっごく嬉しかった。

おいらの世代は団塊の世代と言われベビーブームで人数が多かった。とにかく何をやるんでも競争である。人数が多いだけ色んな才能を持ってるヤツがいた。

余談だが、野球に才能を発揮しているヤツもいた。当時(おいらが小学校時代)ジャニーズって言われる野球チームに入りたいヤツがいっぱいいた。

本当かどうか判らないが、話によると野球に必要なもの全て支給してくれるとのことだ。おいらは野球も得意だったが、ふぅーんって言ってあまり興味を示さなかった。

中学三年になって又おいらと綺麗な女子が呼ばれ、教壇に立たされた。同じこと言われた。皆に一緒に勉強やってんじゃないのと疑われた。一緒に勉強やれてたら最高だが、そんな事出来るおいらではない。晩熟なおいらであった。

更に頑張った。勉強とオシャレと体操とエンヂン飛行機とモデルガンをこなしていた。親父は参考書をどんどん買って来る。日曜日はエンヂン飛行機と決めていたので勉強は全くしなかった。模型と工作に原稿も書いていた。

寒くなるとアメ横に出向いてモデルガンを見に行ったりした。相変わらずGパンは高価だった。アメ横をブラブラしているとカッコイイ靴が目に入った。ハイカットのズック生地で作られていた。どうもアメリカ製らしい。

内側のくるぶしの位置に象徴的な星のマークが入っていた。価格は確か七千五百円位だったと思う。買える訳が無い。

その日以来ずーっと忘れる事はなかった。




▲ ページトップへ

2011年9月21日

科学

(10)宇宙と地球ゴマ

確か1961年に旧ソ連の宇宙ロケットボストーク1号ユーリ・ガガーリンが人類初の大気圏を突破、宇宙と言われる場所へ到達した。

これに刺激されたアメリカがアポロ計画をスタートさせ、宇宙開発が活発化する。その後アメリカは月面着陸に成功するんだ。

アメリカはドイツでV1飛行爆弾V2ロケットを開発したフォン・ブラウン博士を起用し、ロケット開発を行った。やはり戦争の技術がここでも利用されている。

玩具界も宇宙開発花盛りとなり、ロケットやロボットなど色々なブリキの玩具が販売された。その中でも地球ゴマと言われるコマは限りなくおいらに知識を与えてくれた。地球ゴマとはジャイロ効果によって横から押す力を加えても元に戻ろう(起き上がる)とするんだ。

このジャイロ効果は鉄砲にも応用されている。鉄砲から発射された弾丸は銃身に刻まれたライフル(螺旋状に刻まれた溝)により回転し、地球ゴマにしたように障害が発生しても元の軌道に戻ろうとする現象で命中率がライフル溝の無いものに比べると遥かに上昇する。

自転車やバイクの車輪が回転してもジャイロは発生する。だから転びにくくなる。転びにくくなるだけで真っ直ぐ走る原理ではない。真っ直ぐ走るのはキャスターと言われる角度が微妙に影響する。キャスター角は大きく取れば直進性が向上し、角度を小さく取れば旋回性能が向上する。メーカーはこのバランスを上手く取りながら操縦性の優れたモノを創り出す。

だが意外とコントロール出来ないのがジャイロバランスなんだ。偶然だが、これに気付かせてくれたのが地球ゴマだこの偶然が将来フォークオイルABSOを生み出すことになる

地球ゴマも親父が買って来てくれた。コタツに入ってテレビを見てたら親父が帰って来た。オイって言われ親父の方を見ると小さな箱を渡された。何って聞くと開けてみろって、いつもの様に得意気な顔して言われた。それが地球ゴマとの出会いだ。

ただ地球ゴマを回して遊んでいるだけでは直ぐ飽きてしまう。色々ジャイロ効果を試して納得したら机の引き出しにしまったままになる。地球ゴマの存在を忘れてしまった。

しばらくして引き出しを整理してたら地球ゴマが出て来た。何気なく回して遊んでいたら、おいらの悪戯心が首をもたげて来たんだ。コマのバランスが崩れたらどうなるんだ。試してみた。手回しドリルでコマの端に穴を開けてみた。見事にバランスが崩れ、大きくではないがコマは暴れた。

只それだけのことだが、おいらの脳裏に強く焼きついた




▲ ページトップへ

2011年9月19日

科学

(9)ファッションリーダーと機械体操部

次の日学校へ行くと、おいらの周りに何人か集まって来た。おいらが詰めたことを信じなかったやつ等まで、今日学校終わったらズボン詰めてくれるかって聞きやがる。昨日詰めてやったヤツが皆にばらしたんだ。

しょうがなく皆のズボンを詰めることになった。

放課後おいらん家の玄関に行列が出来ていた。昨日やったような段取りで次々とこなした。一時間位で全員の詰めを終えた。皆、喜んで帰って行った。次の日からおいらは今で言う、ちょっとオーバーだがファッションリーダーとなった

おいらの親父とお袋はかなりオシャレだった。その血を継いだのか、おいらもどんどんオシャレになっていった。テレビなどで最新流行のファッションを吸収して参考にした。親父の行きつけのテーラーでフルオーダーのYシャツを親父が作ってくれた。麻と綿混紡のちょっと肌が透けて見えるものだった。

出来上がったのを親父が持って来てくれた。ピッタリと肌に馴染むものだった。次の日着ていった。初夏だったので学生服の上着は着てこなくても校則違反にはならなかった。見せびらかすには最高だ。案の定皆の注目を浴びた。

そして中学一年から中二になった。クラス替えだ。

不安と楽しみとが同居する時だ。一年一組から二年三組になった。

一番ビックリしたのが、この世のものとは思えない位綺麗な女子がいた事だ。胸が締め付けられた。思春期ってぇヤツだ。とにかく気になった。

ある日一年上の先輩に声をかけられた。体操部を創らないか、との誘いだった。おいらの中学に機械体操部はあったが女子部だけだった。体育の時間、前宙やバック転や側転などやっていたのを先輩がみていたのだ。先輩と意気投合し男子部を創ることになった。

おしゃれと体操の日々が始まったのだ。

当時としては背が大きかったので体操で繰り出す技が大きく見栄えがした。




▲ ページトップへ

2011年9月18日

科学

(8)おしゃれ

おいらが色々やってる事の一つとして「おしゃれ」がある。

中一になったばかりの頃、校庭で遊んでたんだ。近くにいた女子がおいらの前髪を指さしながら、おもいっきり大声出して笑ってるんだ。最初、何で笑われているのか分らなかった。周りにいたダチの一人が坊っちゃん刈りしてっから笑われんだよって言われた。

確かに小学校の時はほとんどのヤツが坊っちゃん刈りしてた。大半のヤツが中学に入ったとたん七三の横分けにしてるんだ。この当時おいらはおしゃれに無頓着だった。他にも坊っちゃん刈りしてるヤツは結構いたのに、おいらを何で笑ったんだと思った。指さされて笑われただけで、顔面が真っ赤になった。心底恥ずかしかった。嫌な女である。

その日から髪を伸ばし始め長髪にした。笑うヤツはいなくなった。

おしゃれにも拍車がかかってきた。

当時マンボズボンってぇ足にピッタリした細いズボンが流行っていた。

林家三平は噺家なのに歌を歌い踊りまでやっていた。そん時はいていたのがマンボズボンだ。裁縫が得意なおいらはミシンも巧み使いこなし、俗に言う「詰め」をやった。

クラスで注目を浴びることになる。皆、興味津々でおいらに「どおしたんだ」って質問攻めだ。自分で詰めたって吐露したら、その時は誰も信じなかった。その位綺麗に詰められていたんだ。

しばらくして、おいらん家に級友の一人が訪れた。手にズボンを持って来ていた。ぶっきら棒に「おい詰めてくれ」って言った。玄関に横に置いてあった足踏みミシンの蓋を開け用意した。そいつの希望の太さを聞き、巻尺と竹で出来ている物差しを使い採寸し、チョコと言われる白い印をつけるヤツで詰め代分印をつけた。仮縫い無しの一発縫いだ。

ものの十五分位で縫い上がった。アイロンがけが済んで、級友がはいてみる。OKだった。

喜んで帰って行った。




▲ ページトップへ

2011年9月17日

科学

(7)ムヒに学ぶ

余談だが、おいらが小学生の頃ムヒと言う虫刺されに効く薬を各家庭に社員が無料で配っていた。

お袋がとりあえず預かり、子供が触らないように棚の上に置いた。数ヶ月経ったが誰も使おうとしない。無名のムヒは信用されていなかったのだ。おいらは気になって仕方なかった。

虫刺されにはキンカンだった時代、キンカンが独占状態だった時代だ。ムヒを一番最初に使ったのはおいらだった。おいらの記憶ではキンカンより即効性があった。家族に話した。皆が使うようになった。

以後、おいらん家からキンカンが消えた。キンカンがダメってぇ訳ではないが、おいらは今もムヒを使っている。富山の池田模範堂さんの口コミ宣伝は効果抜群です。商品に自信がある証だ。

テレビでは「脱線トリオ」が活躍し始めていた。

三人の中で群を抜いて由利徹(ゆりとうる)が面白かった。エノケン、古川ロッパ、柳家キンゴロウなどより新しいお笑いだ。

この頃ビデオなど無かったのでテレビドラマは生放送だった。放送中にスタッフがカメラコードを引っ掛け、テレビカメラが左右にズレたりした。台本丸めて手に持ったスタッフが映し出されたり、ミカン箱が積み重ねられたセットなど舞台裏が見られたのも当時ならではだ。

石原裕次郎は俳優でありながら歌も歌っていた。凄い人気だった。石原裕次郎の歌のライブがテレビ放映されたとき、テレビを見ていたおいら達は絶句した。石原裕次郎の歌声が全く聞こえないのだ。ライブに集まった観客の声援をテレビ収録のマイクが拾ってしまってのことだ。当時のマイクは今のように性能が良くなかったのだ。その後声援禁止となった。

ロックンロールの世界では山下敬二郎ヒラオマサアキミッキーカーチスが人気だった。

今はやってないが、テープ投げってぇのが流行っていた。観客が歌手に向かって色とりどりのテープを投げ、歌手は投げられたテープを身体に巻きつけたりして歌い続けるのだ。

ツイストが流行りだすと藤木タカシ尾藤イサオジェリー藤尾などが台頭してくる。

藤木タカシは人気が頂点に達していた頃、急に芸能界から姿を消した。シャボン玉ホリデーなる番組が人気をはくし、ザ・ピーナツなど歌の上手い歌手が出て来た。クレージー・キャッツと言う楽器が弾けるお笑いグループも出現した。面白いザ・ドリフターズが出て来るのは未だだ。クレージー・キャッツの全盛時代が訪れるんだ。

確かNHKだったと思うが「タイムトンネル」「ルート66」と言う前者は時間を旅し、後者はアメリカを車で横断する、さすらいモノが放映されていた。もうしばらくすると海外の探偵モノが流行り始める。

「サンセット77」「サーフサイド6」だ。

事件とファッションと恋愛が絡み合うストーリーが展開して行く。

おはようフェルプス君(当初はプリッグス君)から始まる「スパイ大作戦」には感心させられた。トリックが巧みで魅入ってしまうことがしばしばだ。今DVDなどで見るとちょっとガッカリだが大したトリックではなかった。

又、しばらく(かなり後1970年代から1980年代)すると刑事モノが現れる。「スタスキー&ハッチ」、カルフォルニアハイウェイパトロールの「チップス」は、おいらにとってカワサキのバイクが主役のようなテレビドラマだ。




▲ ページトップへ

2011年9月15日

科学

(6)舶来品

テレビ初期のころはヒサマツ・ヤスオ主演の「ひまなし飛び出す」とか「ダイヤル110番」など事件モノが放映されて人気を博していた。

放映時期は忘れたが「宇宙家族ロビンソン」や「スタートレック」「原潜シービュー号」などのSFものも人気があった。おいらもSF大好きでよく見ていた。スタートレックのレナード・ニモイ扮するスポックは冷静沈着な異星人だが大ファンである。ヘリコプターが主役の「ソニー号の冒険」、「スパイ大作戦」、「奥様は魔女」、「うちのママは世界一」、特に「奥様は魔女」や「うちのママは世界一」などでアメリカ人の日常生活が分ることになる。

日本人の生活に無い家電製品が出てくる。

この時代テレビは一家で見ていた。親父はアメリカの家電製品を見て唸っていた。その後親父はパン食になり、トースターをどこからか買って来た。親父は死ぬまで朝食はトーストだった。

親父はアメリカ製の毛布や米軍の略式帽や今では当たり前となっている肌に塗る蚊避け剤などをどこからか手に入れてくるんだ。特に蚊避け剤は重宝した。この頃、夏休みの夜に小学校の校庭で映画会なるものが開催されていた。白黒の時代劇など放映された。

ところがである、蚊の大群に襲われるのだ。

映画見ているどころではない。かゆくてかゆくて堪らない。キンカン塗ったって後から後から刺され、キンカン塗っても塗っても間に合わない。そんな話を親父に話したんだ。

しばらくして又映画会が開催された。親父がこれ塗って行けって差し出されたのが、蚊避け剤だ。

親父が「これは米軍がジャングルなどに入った時、身体に塗ったんだ。」って言うので、肌が露出しているところに塗った。臭い、臭い、もの凄い臭いだ。それでも蚊に刺されるよりましだってぇんで塗りまくった。

会場に行った。蚊なんざぁ全く傍にも来ないのか、一回も刺されなかった。凄い。この蚊避け剤のお陰で映画を最後まで楽しめた。現地で会ったダチは皆蚊に刺され映画どころではなかったようだ。その後は隣り近所の人にも塗ってやったらもの凄く喜ばれた。

ちょっと得意になった。

アメリカ軍はジャングルで戦う時、こんなもの塗ってたなんて、勝てる訳ない。

改めて化学の凄さを知らされた




▲ ページトップへ

2011年9月13日

科学

(5)スティーブ・マックイーン

テレビにおいらが慕う本当のヒーローが現れた。拳銃無宿と言う西部劇の主役だ。

ウインチェスターM92だったか?M94だったか?レバーアクションライフルの銃身と銃床を短く切って腰の特殊なホルスターに収めていた。小柄ながら動きは速い。拳銃捌きもカッコイイ。早撃ちだ。小柄なだけに殴り合いでは度々負けてしまう。こんなヒーローは今まで存在しなかった。ジョッシュ・ランダル、賞金稼ぎを生業とする非情なガンマンだ。この主役はスティーブ・マックィーンと言う新進気鋭の俳優だ。後にも先にもスティーブ・マックィーンを超える俳優は未だいない。おいらの永遠のヒーローだ

スティーブ・マックィーンは後にホンダ初の2サイクルオフロードバイク「エルシノア」のCMに出演することになる。

大草原を自由自在に駆け抜けて行くのをヘリコプターと思われるが、上空から捉えているシーンが放映された。バイク好きは、このCFが流れるとテレビに釘付けとなるのだった。スティーブ・マックィーンの人気はうなぎ昇りだ。

賞金稼ぎジョッシュ・ランダルが愛用していた銃を後にMGCがウインチェスターM73六角銃身モデルをランダル銃と称して発売した。ジョッシュ・ランダルが活躍したのは1870年代だからMGCのモデル化は間違ってはいないと思う。本物のウィンチェスターM73は貴重品なので銃身切ったり、銃床を切ったり出来なかったんだろうと想像出来る。

西部劇はララミー牧場ローハイドも放映された。二つ共凄い人気だ。ローハイドには若き日のクリント・イーストウッドが出演していた。細身で背が高くちょっと影のある感じがカッコ良かった。

その他戦争モノも放映された。コンバットだ。

サンダース軍曹とヘンリー少尉のダブル主役だ。チェックメイトキング2からホワイトロックって通信を暗号で呼び合っていた。チェックメイトキングと言うならホワイトロックでは無くホワイトルークではないかと思う。

日本語吹き替えの時、間違ったか、言い易かったからかなと思った。

サンダース軍曹が愛用していたのがトンプソン・サブ・マシンガンだ。サブマシンガンとしてはグリースガンの愛称で呼ばれたモノがコンバットには全く出て来なかったような記憶がある。

グリースガンと言えばスティーブ・マックィーンの「突撃隊」と言う映画がある。白黒の映画で確か1961年頃にアメリカで公開されたと思う。日本での公開は1962年頃だったと思う。この映画でグリースガンを巧みに扱っていたのが印象的だった。トンプソン・サブ・マシンガンは通称トミーガンと言われるコルトM1911カバメントのカートリッジ45口径を共用するものだ。このトミーガンもMGCが商品化した。グリースガンはMGC以外のモデルガンメーカーが商品化?したような気がする。

コンバットの人気に乗ったようなギャラントメンなるものも放映されたが、比較的早く終了してしまった。




▲ ページトップへ

2011年9月11日

科学

(4)初めての所得税と感性

鎌さんがおいらに模型と工作誌を持って来てくれた。

何と鎌さん模型と工作誌に製作記事を書いてるではないか。貸してくれたので参考にして、おいらなりに書いてみた。模型と工作誌を返すついでに書いた記事を鎌さんに校正してもらった。OKだった。

模型と工作誌に記事と写真を送った。数ヵ月後雑誌が送られて来た。又親父が親戚中に自慢してた。雑誌が送られて来た後しばらくして現金書留がおいら宛に送られて来た。覚えが無い。親父が開封、製作記事に対する代価だった。三千六百円入っていた。明細を見るとページ/八百円で五ページ分だ。四百円足りない。更に明細を見ると知らない単語があつた。所得税だ。足りない四百円が始めて収めた税金だ。

何回か記事を送った。中学生としてはかなり金持ちになった。若き専門誌ライターの誕生である。

ある日自作した燃料タンクを見つめていた。

気がついたらお袋が傍らでおいらに声をかけていた。自作タンクを見つめて、いつもの空想に耽っていた。二時間経っていた。自作燃料タンクと石油タンカーが合体した瞬間だった。隔離板付き燃料タンクの誕生だ。

本格的スタント機を自作していた時期でもあり、即、搭載した。

抜群の性能だ。鎌さんに報告した。

同時に特異な翼型も考案した。翼を通過する空気が見えると言ったら鎌さんに笑われた。

この世界に引き込んだ従兄弟の兄貴は東大生だった。たまたま機体を持って遊びに行ったら、その兄貴の友達が遊びに来てた。その中の一人が東大で航空力学を専攻していた。

おいらの機体の翼形状を見た瞬間、君が考えたのかと言われた。理由を聞かれたので、翼を通過する空気が見えたと言ったら、その感性を大切にしなさいと言われた。その人はしばらく「うーん」と唸りながらおいらの機体を見ていた。

後に大島模型のキット赤ワシにおいらの翼型が採用されていたような記事を模型と工作で見た。大島模型と仲良かった鎌さんが、この特殊な翼型を話したのかもしれない。あるいは赤ワシの設計者がおいらのフライトをどこかで見ていたのかも?今となっては分らない。

ある時、鎌さんがおいらにエンヂンをくれた。鎌さんが使っていたエンヤ29スーパータイフーンってぇ四角いのベンチュリー(キャブに相当するモノ)タイプのエンヂンだ。中身は全部新品にしといたんで慣らし運転しろと言われた。もの凄く嬉しかった。

でも、このエンヂン一回も飛ぶことはなかった。今でも当時(50年以上前)のままキープしている。慣らしは終わらして機体さえ作れば飛ばせる状態だ。

現在ジャミッション・スペシャルってぇ機体に搭載しようかと考えているんだが・・・・・




▲ ページトップへ

2011年9月10日

科学

(3)模型と工作誌とライター

Uコンの競技会に積極的に参加していた。結構優勝したりして、ちょっと有名になり始めていた。

自作機(オリジナル機)で、ある競技会に参加したとき、優勝してしまった。主催者が来て君みたいな子はうちの競技会に出ないでくれと言われた。理不尽なと思った。キットを販売してる有名な主催者なので仕方ないと思った。

この日より、この模型屋の主催による競技会の参加資格はこの模型屋製のキット使用が前提となった。

トロフィーや盾や副賞の景品をいっぱい抱える。大量なんで地面に置いて注意を怠ると直ぐ盗まれるんだ。貴重な優勝トロフィーや盾はよく盗まれた

悪いことばかりではない。この日良い事もあった。模型雑誌の草分け的存在の「模型と工作」の記者との出会いである。もう二度と出るなと主催者に言われて直ぐに声を掛けて来たのが模型と工作の記者だった。

おいらは又何か言われると思い身構えたんだが、主催者側の人ではなかったので安堵した。模型と工作に製作記事を書いて欲しいとのことだった。中学生だし作文嫌いだし、おいらには無理だって言ったんだがダメだった。名刺を渡され押し切られそうになった。理由を聞いた。自作機で性能が抜群、デザインも今までにないもので、以前から目を付けていましたとのことだ。

一緒に来ていた鎌さんが駆けつけて来た。この記者と知り合いのようだ。お前だったら製作記事書けるから承諾しろと言われた。仕方なく承諾した。不安だ。

帰ろうとしたら又知らないおっさんに声掛けられた。雑誌航空ファンの記者だった。製作記事を書いてくれとのことだ。たった今模型と工作誌から製作記事を依頼され承諾したとこだと言ったら、名刺を渡され写真インタビューされた。記事として出るので、出たら雑誌を送るとのことだった。

数ヵ月後航空ファンが送られて来た。

親父が親戚中に見せて自慢してた。




▲ ページトップへ

2011年9月8日

科学

(2)変形五角形

鎌さんは燃料タンクも自作していた。当時高価な真鍮を使ってだ。

又、余談だが家の玄関の一本引き扉のレールを親父が真鍮に代えたんだ。扉の開閉がスムーズになった。次の日の朝、扉を開けようとしたら中々開かない。親父が渾身の力を込めて開けた。外側のレールが切り取られ盗まれていた。その位真鍮は高価だったのだ。

鎌さんの燃料タンクはクサビ型の一般的なものだが中身が違う。ループ式と言って飛行姿勢の変化でも燃料切れを起こさない構造になっている。おいらもこの方式で自作した。高価な真鍮は買えない。たまたま家にトタン屋が来ていた。水周り(台所)の修理に来ていた。ずっと作業を見ていた。これだっトタンを使おう。作業後トタン屋に端切れをもらった。

トタン屋が使っていた焼きハンダゴテ(電気ではなく炭などで温める)が気になった。後にトタン屋が使っていた焼きハンダゴテより一回り小さな焼きハンダゴテと電気ハンダゴテ用ヒーターを秋葉原で買い、焼きハンダゴテ先端の銅塊両サイドにヒーターを針金で巻き付けた自作電気ハンダゴテを創った。熱容量がでかくハンダ作業が楽になった

この当時のフラックスは塩酸だった。真鍮に比べトタンはハンダが着き難かった。塩酸の中にトタンの切れ端を入れてやるとハンダが着き易くなると鎌さんが教えてくれた。

数学を習っているとき断面図や容積に出会った。虜になった。燃料タンクに応用出来ると思った。一般的形状のクサビ型タンクより断面を変形五角形にすることで容積が同じなら断面積を減らせると考えたんだ。

今では一般的な変形五角形タンクだが、当時周りで使ってるヤツは皆無。市販品も無かった。

鎌さんの目に留まった。お前が考えたのかって言われたので、経緯を説明したら感心された。




▲ ページトップへ

2011年9月6日

科学

(1)非主流科学

中学生になると小学生とはレベルの違う勉強内容になる。算数から数学、理科から物理、化学、生物学と専門的になる。

特に数学と物理は面白い。化学はイマイチだが面白い。生物の一番最初の実験がカエルの解剖だった。エチールエーテルで眠らせ解剖するのだ。

おいらはカエルの解剖よりエチールエーテルに何故か興味を持った。模型のディーゼルエンヂンの燃料に使われていたからだ。実験後エチールエーテルの特性を先生にしつこく聞いたら最後にこっ酷く怒られた。しつこ過ぎたのだ。興味あるものはとことん聞きたがる性格がアダとなった。

社会科の授業で石油タンカーの構造について習った。

又もや何故か気になった。

船内に多数の隔離板を設けないとタンカーは沈没してしまうと言うことなのだが気になる。

自然科学や物理化学を習う度に燃料を自作したい欲求にかられる。近所の薬局に相談に行く。アルコール、ニトロベンゾール、ひまし油、全て入手出来ることになった。

どう言う訳か独自の混合比率で創り始めた。それも誰も混合したことのない素材入りでだ。性能は群を抜いていた。

鎌さんに使ってもらった。鎌さんにレシピも教えた。市販品の半額で創れた。

油職人の原点かもしれない

アメリカ製の燃料も発売されていた。確かコックス社製の燃料だ。五百ccで千五百円だ。べらぼうな値段である。ジャック&ベティの英語力で缶に印刷されている成分を見てみた。聞いたことの無い材料が使われている。ニトロメタンだ

模型屋のおやっさんとかエンヂン飛行機やってる人に聞くとニトロベンゾールの代わりになるもので、国産燃料にコックスの燃料を添加するとパワーが出るとのことだった。添加剤として使ってるようだ。

ある時Uコンやってる金持ちのおっさんにおいらの燃料をあげたことがある。お前の燃料は生一本のコックス燃料より全然パワーがあるって言われた。やったと思った。有頂天である。

毛細管現象や表面張力、遠心力、求心力、摩擦、引力等など今では非主流な科学自然科学を学べば学ぶほど、これらの現象からモノは離して考えることは出来ないと悟った。又、利用することも学んだ

現在の油職人としてのモノ創りに欠かすことの出来ないものとなっている。




▲ ページトップへ

2011年9月4日

出会い

(6)もう一つのアメリカ

アメリカが大分好きになってきた。

アメリカ人が作る機体はとても綺麗だった。どおしてこんなに綺麗なんだろうって思っていた。そんな時コンバット(同心円上で二機で機体のテールにつけた紙テープを切りあう競技)で戦ってた二機が空中衝突し大破した。駆け寄ると二機ともグチャグチャで主翼の塗装裏面が見えた。英字が印刷されている。新聞だったのだ。それにしても新聞紙でこんなに光沢がでるなんてアメリカは凄いと思った。日本の新聞はわら半紙の様にザラザラしてるし、塗装すればドンドン塗料を吸い込んで重たくなる。豊かなアメリカと思っていたが、廃物利用するアメリカもあるんだと思った。もう一つのアメリカを見た様な気がする。

更に詳しく見てると見たことの無いエンヂンが搭載されていた。アルミの肌がとても綺麗なエンヂンだ。

FOXってエンヂンに刻印されていた。綺麗で軽そうだった。又もや憧れてしまうどうしようもない性格だ
スーパータイガーとか言うエンジンも使われていたが、フォックスがいい。使ったこともないのにフォックスにベタ惚れ。見て周るとアメリカではフォックスを搭載した機体がかなり多い。フォックスがポピュラーみたいだ。特にFOX35は魅力的だった。その後模型屋に価格を聞いた。具体的な金額は忘れたが高かったと記憶している。

おいらは現在FOXの049〜最新の60まで所有してしまった。35なんて何台あるか分からない。全てUコン仕様である。既にラインドロップしたヤツも結構ある。最新モデルはほとんど持っている。たまたまアメリカに行ったヤツがいて、そいつの叔母がアメリカ在住なのを良いことにメーカーから直に仕入れることが出来た。

エンジンのパーツやグロープラグなど、しこたま買い込んだ。本当にバカなヤツである。その後もグロープラグをアメリカから直購入した。その時FOXの人が自慢してたのが、うちのグロープラグは世界一だと言ってはばからなかった。

日本のグロープラグに比べ価格は円高もあって凄く安い。おいらはエンヤのグロープラグ一筋で来たがFOXと比べるとエンヤの方が耐久性は高い

FOXは種類が多い。ショートリーチ、ロングリーチがあり、おいらの所有する外国製エンジンへの対応力はFOXに軍配が上がる。おいらが知る限り国産ロングリーチグロープラグはOS製の一種しかない。

エンヤさんロングリーチグロープラグ創ってって言っても、今の日本は市場が小さくなり過ぎて無理な話だ。




▲ ページトップへ

2011年9月3日

出会い

(5)VIVA!アメリカ

興奮が収まりブラブラ歩いていると、甘ったるいいい匂いがして来たので、その方へ行くと見たことも無いような大きなアイスキャンディ(今で言うガリガリくんを一回り大きくした位)を売ってるんだ。

咽喉が鳴る。買おうとして10円を出すと、人差し指を立てて指を左右に振り「ノーノー」と言われた。日本のアイスキャンディは5円だったので、四倍位のデカさだったが10円で足りないのかと思った。

現実は金額の問題ではなく基地内はドルしか使えないのだ。
1ドル三百六十円以前の時代で日本円の価値は無いに等しい位低かった。

おいらは中学一年生としてはかなり背はデカイ方だったがアメリカ人からすればガキだ。アイスキャンディ屋のアメリカ人おっさんとのやり取りを見ていたらしい、人の良さそうなアメリカ人のおっさんがアイスキャンディを買ってくれたんだ。知り合いでも何でもないアメリカ人のおっさんがである。5セント位だったと思う。

ジャック&ベティを勉強し始めていたが英語が大の苦手なおいらが出来る最大の感謝の印はお辞儀をすることだった。ペコっとお辞儀をしたらニコニコ笑って親指を立てた。生活習慣の違うおいらにとって何が何だか訳が分らない。後にサムアップの意味を知ることになる。

食べてみた。今まで味わったことのない味だ。当時、日本のアイスキャンディは砂糖ではなく、サッカリンと言う甘味料が使われていたんだ。

こんなアメリカと戦争したって絶対に勝てないと思った。




▲ ページトップへ

2011年9月1日

出会い

(4)ジェットエンヂン

基地にも慣れて色々と見学出来た。この日の最大の驚き専用工作室があったことだ。

日本でバルサは高価だったが、バルサなどの材料は使い放題、工作機械も揃ってる。糸鋸や手回しドリルの手作業でやっているおいらにとって夢のような世界だ。アメリカの凄さに脱帽である。

工作室に唖然としてると、聞いたことの無い音が聞こえて来た。プォーンプォーンみたいな音だ。音のする方へ言ってみると、もの凄く小さな飛行機のようなものの上面に細長い金属製の筒のようなものがのっかている。ワイヤーが着いているのでUコンらしい。その金属製の筒に自転車で使う空気入れで空気を送り込んでるんだ。空気を送り込む度にプォーンプォーンって音がするんだ。汗だくになりながら空気を筒に送り込んでる。しばらくするとプォーーーーーーーーーンって連続音になり、筒が真っ赤になって行くではないか。筒後方から炎が出てる。空気を送り込んでいた人が、慌ててワイヤー先端に付いているハンドルを握り、左手を上げた。Uコンに間違いないのだが、プロペラが無い。エンヂン音も違う。スルスルと離陸し始めた。かなり長い離陸距離だ。浮いた。脚が脱着式のようで機体が浮いたら脚が外れた。音がキィーーーーーーンッて金属音になった。凄いスピードだ。何とジェットエンヂンを搭載したスピード機だったのだ。

パルスジェット方式のジェットエンヂンだ。ナチスドイツのミサイルV1飛行爆弾に搭載されたエンヂンと同じ構造のものだ。ってぇことはV1ジェットだったのだ。V2からはロケットエンヂンになった。

アメリカは凄いと思った。アメリカと戦争したのは絶対間違いだと確信した。




▲ ページトップへ

Copyright © 2011-2023 ENGINE845 All Rights Reserved.