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(3)アメリカとナイロンとステンレス
木製のプロペラを使用していて墜落させていないのに着陸時にプロペラを折ってしまうことがしばしばあった。
小遣いが続かない。確か一本十円位だったと思う。そんな悩みもある発明品が救ってくれることになる。その発明品はナイロンだ。ナイロンは長繊維となり、丈夫なナイロン製靴下が生まれた。当時、女性と靴下が強くなったと評された。その他に錆びない鉄と称されたステンレスも発明されていた。
模型界ではナイロン製プロペラの誕生である。墜落させても折れないプロペラの誕生だ。最初模型屋に入荷したのがアメリカのトーネードのプロペラだったと思う。かなり高価な一本二百円か三百円だったと思う。その後トップフライト製なども使った。
飛行技術はドンドン向上してくる。ある日鎌さんが全日本選手権に出るので一緒に行くかと言われた。断る理由が無い。是非行かせて下さいとこちらからお願いした。
場所は米軍横田基地だ。敵国アメリカ、大嫌いなアメリカ人の本拠地だ。一瞬躊躇した。興味の方が大きく改めて行く決意をした。当日は不安と期待が入り混じった何とも表現しにくい状態だ。確か駅から映画にでて来るような黄色いスクールバスで送迎、基地正門で憲兵のような軍人が検閲のため乗り込んで来た。ヘルメットにはMPと白地の文字が入っていた。腰には茶色の軍用ホルスターに収められたコルトガバメントを携えている。本物だ。拳銃に魅入っていたら憲兵がガン見して来た。
無事正門を通過、会場へと進む。会場に到着。アメリカに対する考え方が180度変わって行く自分に気付く。
先ず驚いたのが現役ジェット戦闘機のF86セイバーと当時最新鋭のジェット戦闘機ロッキードF104が展示されていて触らせてくれたんだ。本物のジェット戦闘機だ。ロッキードF104の主翼の薄いのにはたまげた。オーバーな表現をするならナイフの様なだ。大きさが思ったより小さかったのが印象的だった。
余談だが、当時東京上空の規制が無かったのか、米軍や自衛隊のジェット戦闘機が飛んでいた。音速を超えるときに発生する衝撃波が発する音が授業中に良く聞こえて来た。窓ガラスがビビッてガタガタする音が今でも鮮明に思い出される。
次に驚かされたのはUコン専用の飛行場だ。目の前にある。原っぱで飛ばしているおいら達からすれば天国のような世界だ。確かスタント用、スピード用、コンバット用があったと思う。飛行機のディズニーランドだ。
鎌さんはスタントとコンバットに参加した。スタントでは二位。一位は後にOS(関西の模型エンヂンメーカー)に就職する三原氏だ。当時大学生だったと記憶している。鎌さんをやっつけるヤツがいるってぇことが信じられなかった。
コンバットの順位は忘れてしまったが入賞してたような気がする。
(2)人真似
飛行場で待っていると待望の鎌さんが登場。案の定、鎌さんの目に留まった。声を掛けてくれた。ニコっと笑って「真似したんか」「じゃあ飛ばしてみろって」言われた。
緊張のせいか中々エンヂンがかからない。鎌さんが「お前慣らしやつたのか?」って言われたが慣らしの意味を知らなかったので、してないと返した。未だかからない。鎌さんが業を煮やしてエンヂンをかけてくれた。一発で始動した。どうもコツがあるようだ。
離陸はうまくいった。適当に作った機体なんで、実際飛ぶとは思っていなかった。この時まで水平飛行しか出来なかったが、飛んだことで有頂天。水平飛行ばかりしてるおいらの所へ鎌さんが来たんだ。おいらが握ってるハンドルをムンズと掴み宙返りをさせてくれた。あまりにもすんなり出来たんでビックリしてると、背面飛行だ。背面飛行が出来ると逆宙返りだ。たった一日で三つの技が出来てしまった。鎌さんありがとう。
鎌さんパクリ機に使ったエンヤ19は今でも所有している。完動品である。4〜5年前に始動してみたが一発で始動した。
これを機会に鎌さんの助手となった。
以後日曜日は必ず鎌さんと飛ばしに行くことになった。有頂天である。当初は助手ではなかったので、鎌さん機に触ることが出来なかった。助手になったことで離陸の際に押さえる役目もある。初めて鎌さん機に触ったとき表面がツルツルしてたのが印象的だった。
当時水曜日と土曜日は午前授業だったので午後から飛ばしに行けた。勿論社会人である鎌さんはいない。
後にこの午後飛行が大きく飛行技術を向上させることになる。
(1)鎌さんと山手フライングクラブ
おいらのエンヂン飛行機ライフがスランプと言うか曲がり角に来ていた。
飲兵衛な模型屋のおやっさんにそれとなく話すと模型屋が主催するクラブ「山手フライングクラブ」YFCに誘われた。ラヂコン部とUコン部があって当然Uコン部に入った。当時、山手フライングクラブはかなり有名だったらしい。この飲兵衛の模型屋のおやっさんの誘いが今のおいらにとって人生を決める要因の一つになった。と言うのはこのUコン部にとんでもないお人がいたんだ。
鎌さんと言う愛称で呼ばれていて、最初の頃は傍にも寄せ付けないオーラを放っていたんだ。
直感だが何か凄い人だと思った。ある日一緒に飛ばしに行けるチャンスが訪れた。何の期待もせず参加した飛行会だが、鎌さんの持って来た飛行機はプロフィールタイプのオリジナル機だった。キットしか知らない(パインと言うキットしか創ったことがない)おいらにとって何か新鮮なショックだった。
皆が飛ばし終わった頃合を見て鎌さんが飛ばすことになった。遠巻きに見ていた。何か分らないが凄いオーラを放っている。
一発でエンヂンが始動した。凄い。カッコイイ。使い込んだエンヤの19が呻りをあげている。鎌さん機がフワッと離陸した。二三周水平飛行をしたと思ったら宙返り、背面飛行、逆宙返り、ウイングオーバー、横八の字、縦八の字、四葉のクローバーなど今まで見たことも無い技を見せてくれた。後で分ったんだがスタントと言う種類のものだ。
もおダメだ。気が狂いそおだ。この日から寝ても覚めても鎌さんの事ばかりだ。吹っ切れた。
スランプ状態も吹っ飛んだ。お近づきになるため、見よう見真似で鎌さん機をコピーすることにした。写真を撮っておいたので何となく作る自信があった。キットを一回作ったきりなので、全てが適当だ。見た目だけでも似させようと努力した。何となく似た様なものが出来上がった。又もや鎌さんと飛ばせる機会に恵まれた。
ワクワクドキドキだ。
(5)ハングオン
ミゼットの初期型はバーハンドルだった。
オートバイと同じようなハンドルで運転してた。前一輪、後ろ二輪で三輪となる。この車輪のレイアウトが転倒を誘った。
曲がり角をちょっとオーバーなスピードで周るとほとんど100%転倒した。後が悪い、転び方によってはバーハンドルが腹に刺さるってぇ言うか腹を打つんだ。後に丸ハンドルになる。
おいら達がエンヂン飛行機を飛ばしてる時、牛乳屋のミゼットが走って来た。見ていると、曲がり角を曲がったとたん内側の後輪が浮いたと思ったらヒックリ返った。直ぐ助けに行った。牛乳はブチ撒かれたが運転手はかすり傷程度だった。ミゼットは簡単に持ち上げられた。何も無かったかの様に牛乳屋は走り去って行った。転倒に慣れてんのか平然としてた。
酔っ払っていても模型屋のおやっさんの運転は確かだった。コーナーをハングオンの様に体重移動させながら巧みに曲がって行く。おいらもおいら側に曲がる時は一緒に体重移動をやった。着く頃にはヘトヘトになっていた。でも面白かった。
この頃ハングオンってぇ言葉なんざぁ無かった。
豊島園に着いた。エントリー手続きをして順番を待つ。25mプールを直線的に走らせ速さを競うものだ。ラヂコンではない。フリーと言うカテゴリーの競技だ。
順番が来た。エンヂンとスクリューシャフトの連結部分にフライホイールプーリーがあり、プーリー溝にベーゴマを回すヒモを巻く。ヒモの端を持って引っ張るとエンヂンは始動する。スクリューが一個のタイプである。作用反作用の原理が働く。方向舵をエンヂンが向かって左回りなので、右に若干切らなければいけないはずだ。出走まで直ぐだ。おやっさん、未だ方向舵を切らない。業を煮やして助言するも「でぇじょぶだよ、まかしとけ」って言うんで任せた。
いよいよスタートだ。エンヂンの暖気も終わり、水面にボートを着水させる。ボート後尾からスクリューが巻き上げる水飛沫が凄かった。スタートの合図で水泳の飛び込みの様に一斉にボートをおっ放す。模型屋のおやっさんのスタートポジションが一番右端。スタートの合図だ。案の定、右端スタートの左端ゴールとなった。大会役員にこっ酷く怒られていた。酔っ払いの適当おっさんだ。ただ、他のボートにぶつからなかったのが不幸中の幸いだ。
豊島園でエンヂンボート大会、今では想像出来ないイベントが行われていたんだ。主催は毎日新聞だったり産経新聞だったり、これまた今では考えられないことだ。あらゆる模型の大会を主催していた。いつ頃からだろうか模型が青少年を育て、世の大人達がそれをサポートしてた。今政治家が盛んに言ってる「子供は社会が育てる」と。本当にそう思ってるのか?って思う。今模型作っている子がどれだけいるんだろうか?。今飛行場なんてどこにも無い。野球場やゴルフ場は無数にあるのに。そん中の一つや二っつUコンの専用飛行場にしたって誰も文句言わないと思う。と思ってしまう今日この頃である。
Uコンは最も安全で経済的で創造力を高められる夢満載の動く模型である。
(4)塩谷製作所とダイハツミゼットと豊島園
更にエンヂン飛行機に没頭するようになった。模型屋に用も無いのに毎日通った。
そんなある日「こんちわ」って模型屋に入って行くと誰もいない。カウンター兼ショーケースの後ろから煙が出ている。
「火事だぁっ」って怒鳴ったら、おやっさんがヒョイつて立ち上がったんだ。七輪でスルメ焼いて一杯やってたらしい。酒臭い。霊柩車の運転を生業としてるおっさんも顔を出した。二階からおばさんが「又飲んでんのかい、全くしょうがないんだから」って二階と一階で罵り合ってるのもいつもの光景だ。霊柩車の運転をしてるおっさんは一度だけ、エンヂン飛行機を飛ばしている時、エンジン飛行機を高圧線に引っ掛け感電して死にそうになったことがある。強運の持ち主だ。
模型屋のおやっさんは年がら年中酔っ払ってる。ある日、エンヤ(塩谷製作所)に行くんで一緒に行くかってぇんで行くことになった。エンヤとは模型エンヂンのメーカーである。この頃エンヤは中野にあった。模型屋のおやっさんが何処からかダイハツミゼットを運転して来て店の前に停めた。酔っ払い運転である。ミゼットの助手席に座りエンヤに向かう。エンヤに到着。社長が出迎えてくれた。模型屋のおやっさんが工場の人と話してるので、エンヤの社長が相手してくれた。エンヂンについて色々話してくれた。内容は忘れてしまったが、もの凄く参考になったことは覚えてる。
その後塩谷製作所には模型屋のおやっさんと何回も行くことになる。
エンヤの社長、有難うございました。今でも感謝してます。とても楽しかったです。
ある日曜日の朝、用も無いのに模型屋へ向かう。模型屋のおやっさんが豊島園でボートの競技会があるので、一緒にいかないかって言われた。もち行く行く。ミゼットの助手席に座ったとたん、おやっさんのボートを持たされた。全木製の綺麗な競艇だ。相変わらず酒の臭いがプンプンする。
酒酔い運転がいけないことだとは知らなかった時期だ。後に免許取ったときにいけない事と解る。
(3)全てが手動
幼稚園か小学校低学年のときだった、叔父貴のメグロに乗れるチャンスが訪れた。叔父貴ん家の近所で開催される花火大会をおいら達一家で見に行くからだ。
おいらはバイクに乗れるってぇだけで、一日早く叔父貴ん家に行くことになった。叔父貴が迎えに来た。小さなおいらはタンクの上にのる。野球帽をかぶってだ。
タンクの上だからハンドルが握れる。腕ぎ式方向指示器の上に足を置き、用意万端整った。いつでも出発出来る。叔父貴がイグニッションスイッチをオンにする。点火時期を操作するレバーを始動のポジションにし、チョークを引く。キックレバーに足をかけ、一気に踏み下ろした。ぶぶぶっばーーーっとエンジンがかかった。何回か空ぶかしをしてチョークを戻す。点火時期操作レバーを走行のポジションにする。腕ぎ式方向指示器のレバーを右方向にすると右側の腕ぎ式方向指示器が上がった。ギアーを叔父貴がローに入れる。おいらは右腕を高く上げ「出発進行」って大声をあげてしまった。走り始めた。心地よい風が全身を通り抜けて行く。最高だ。単気筒サウンドが耳をくすぐる。
悪戯心が首をもたげる。点火時期レバーをいじってみた。パンパンとマフラーからアフターファイアー音が聞こえる。メチャメチャ楽しい。でも叔父貴にたしなめられ止めた。
しばらくすると薄暗くなり小雨が降り始めた。叔父貴がライトを点ける。ライトに照らされた小雨がとても綺麗だ。この日からおいらは雨が好きになった。
でも免許も取れない足もとどかない、おいらにとって指をくわえてる他ない。
(2)浅間火山レースとメグロ
戦後バイクメーカーが200社位あった。
少しずつ淘汰され始めて来たころ浅間火山レースってぇのが開催され何人かいる叔父貴の中に浅間火山レースに出る叔父貴がいた。
最初何に乗って参戦したか覚えていないが、ハッキリ覚えているのがホンダC92(4サイクルSOHC125cc)?を駆っての参戦だ。ある時期からレースの帰りに必ずおいらの家に寄って一休みして風呂に入ってから帰宅するのが恒例となった。レースの話を聞く度に凄い叔父貴だと思った。浅間火山レースの初期にホンダは勝てず、ヤマハのYA−1通称赤トンボ(2サイクル125cc)が勝っていた。
親父の弟が電気工事屋をやっていた。最初自転車の後ろの大きな荷台に工具箱と材料を積んで仕事をしていた。景気が良くなると自転車がバイクに代わる。毎日午後三時過ぎになるとおいらん家に寄ってお茶して帰る。毎日だ。バイクイコールカミナリ族と思ってたおいらにとって叔父貴の乗って来るバイクは何故かおとなしい。ある時この叔父貴がメグロの単気筒4サイクル150ccのバイクを乗って来た。
カッコイイ。
黒光りしている。おいらから頼んで磨かせてもらった。自分の自転車しか磨いたことがない。当時自転車が錆びないようにミシン油をつけて磨いていた。ボロ布にミシン油をたっぷりとつけバイクを磨き始めたら、叔父貴が血相変えて飛び出して来た。何が起こったのか????叔父貴に怒られた。叔父貴曰くミシン油塗ったら埃や砂がついて逆に汚れる。ミシン油のついてないボロ布でミシン油を拭き取らされた。
その時、初めてワックスの存在を知った。
余談だが、メグロの後にしばらくして、少年ジェッターが乗っていたラビットマイナーに乗って来たときは興奮した。無免許だったが近所を一周りさせてもらうのが楽しみだった。
おいらが中学生の頃の話しだ。
(1)SONY
時代を真空管式ラヂオに戻し、ある時親父が寝ているおいらを起こしに来たんだ。手に何かを持ってニタニタしている。ポンとおいらに手に持ってるものを渡しどっかに行ってしまった。
包みを開けると見たことも無い代物が出て来た。SONYって言うメーカーのラヂオらしい。
こんな小さな箱から音が出るのか、頭の中は???????だ。電池を入れてアンテナを伸ばしスイッチを入れる。ザーザーっ雑音しか出ない。ダイヤルみたいなものを回してみる。音が出た。凄いこんな小さなラヂオから真空管ラヂオとは比べものにならない良い音がするんだ。
仲の良いダチに聞かせて周った。皆感心した。SONYってメーカーは凄い。ホンダに続きSONYだ。これからの日本は何か凄いことになる予感がした。未だに解らないのは何故親父がトランジスターラヂオをおいらに買って来たかだ。
未だある。ある時、真空管式のSONY製のテープレコーダーを買って来たんだ。これはトランジスターラヂオよりうけた。先ず自分の声を録音してみた。聞き慣れた自分の声じゃない。当時は解らなかったが自分の声は空気伝達だけではなく骨からも振動として伝わってくるので、空気伝達だけの声と違うのだ。
ありとあらゆる音を録音した。一番愉快だったのは親戚の叔父貴が来た時隠れて会話を録音して、隣の部屋から聞かせるとメチャ驚くんだ。例外なしに俺の声じゃないって言うんだが、話の内容が同じなので仕方なく認める。とにかく面白かった。
ただ何で薄っぺらなテープに音が入るのかは謎だった。SONYってぇ会社のことをもっと知りたくなった。
この頃の小型ラヂオの定番はゲルマニュームラヂオと呼ばれるモノだった。
(4)サミュエル・コルトとオリバー・ウィンチェスター
余談だがサミュエル・コルトはヘンリー・フォードより早く部品の標準化を行ったんだ。フォードは部品の標準化により大量生産を実践し、販売価格を大幅に下げた。T型フォードはアメリカ人のライフスタイルを変えた。車がなくてはならないモノとなった。
コルト製品が破損や磨り減ったりすると作動不良を起こす。作動不良は命に関わるのだ。アメリカにはガンスミスと言われるガンの修理職人がいる。このガンスミスが修理に持ち込まれたガンを一丁ずつ丁寧に部品をすり合わせしながら修理してたんだ。時間もかかり需要が拡大していたので大量の未修理ガンが溢れた。そこでサミュエル・コルトは解決策を模索した。理由は直ぐ見つかった。ガンの部品の精度が悪く、ガンスミスが手間をかけてすり合わせをしなければちゃんと取り付けられず作動しなかったのだ。ガンを構成する部品の制度を上げれば部品交換だけで済み、そのガンの持ち主でも直せると結論付けた。部品の標準化である。
宿題で読書感想文ってぇのがあって国語が全く嫌いなおいらにとって苦痛だった。丁度サミュエル・コルトのことを読んでいたので書くことにした。
鉄砲大好き人間だったので、内容が良く理解出来ていた。部品の標準化やミシシッピー川を航行していた外輪船の外輪が一周すると必ず同じ位置に戻ることを発見、六連発リボルバーを発明した。単発式が当たり前だったので六連発は戦いを有利にした。などエピソードを交えながら感想文を書いた。感想文の中においらの考察も加えた。外輪船で気がつくなら何で水車で気がつかなかったのかって。へそ曲がりなヤツである。
金賞が取れた。後にも先にも感想文で金賞取れたのはこれっきりであった。
当時連発銃はコルトのリボルバーだけではなくウィンチェスターライフル銃がある。ウィンチェスターはレバーアクションと言う連射機能で14連発を可能とした。西部開拓時代の代表的なモデルとしてM66(1866年)、M73(1873年)、M92(1892年)、M94(1894年)などがある。特にM66は機関部の外装が真鍮合金だったのでイエローボーイ(真鍮の色)と呼ばれたり、確かM66〜M92までは拳銃用の弾丸しか使えなかった。M94からライフル弾と言われる強力な弾丸が使用出来た。M73は1950年ジェームズ・スチュワート主演で「ウィンチェスター銃'73」と言う映画が公開されたくらい人気ある。
当時のおいらは夏場はエンヂン飛行機、冬場はモデルガン(トイガン)で楽しんでいたんだ。
(3)トイガンとモデルガン
テレビの話に戻る。
この頃、玩具の鉄砲は百連発巻き紙火薬のブリキ製だった。テレビの影響か否かは分らないが、海外トイメーカーであるマテルやヒューブレーのトイガンが輸入される。ブリキでは無い金属ダイキャスト製の真ん中合わせ(最中式)だがよく出来ていた。マテルのコルトシングルアクションアーミー(現物はシングルアクションではなくダブルアクション)、ヒューブレーのコルトM1911ガバメントが有名だ。各々子供の玩具なので本物より若干小さく出来ている。
当初輸入されたまま玩具店で売られていたが、改造して販売するメーカー?が出現する。マテルなどはメッキされているのだが、メッキを剥がし黒の艶消しで塗った幼稚な改造ガンがアメ横などで売られるようになる。ヒューブレーのコルトガバメント改造ガンは更に改造を加えると殺傷能力があると販売禁止になった。
親父とよくアメ横に行った。魅力的なガンがいっぱい売られている。発売禁止になったガンも売っていた。確か三千五百円位だった。買っときゃ良かったと一瞬思った。
町工場のようなところで無秩序に改造され販売している訳の分らないモデルガン、そんな流れのなかから現れたのがMGCと言う本格的モデルガンメーカーだ。
ご存知と思うが現在MGCは存在しない。ガン雑誌もかなり創刊された。雑誌名は「ガンファン」位しか覚えていないが中学生になってからだが、何冊か愛読していた。もう亡くなられたがワイルドネモヒッコック(ワイルド・ビル・ヒッコックと言う実在の人物のパクリ)のペンネームで執筆されていた根本氏の記事は面白かった。
アメリカのガンメーカーであるコルト社の創始者サミュエル・コルトのことを知ったのもガン雑誌だ。
(2)生涯の友
トキワ荘の斜め前に「ダイヤ書房」って言う貸本屋があった。近所の悪ガキがたむろってることもしばしばだ。借りたことは無いが確か一泊二日で一冊10円だったと思う。
ダイヤ書房には兄弟がいて長男は模型が趣味、HOゲージと言う電車や機関車と貨車、客車など作ったり、走らせたりして楽しんでた。その他木製の軍艦など船も作っていた。たまたま中学でクラスが一緒になり友となったが、以前模型屋でしょっちゅう出くわしていた。やっている模型の種類が違ったので声を掛け合うことはなかった。模型キットのほとんどが金属と木で構成されていたんだ。(プラモデルは出現していたが、行きつけの模型屋は扱ってなかった。)
ただ、こいつが将来かけがいの無い友になるとは夢にも思っていなかった。今も週に一回以上会っているほど仲良くしてる。こいつの親父にもお袋にも大変世話になった。
クラスが一緒になり友になったことで堂々とこいつん家に遊びに行けることになる。マンガは読み放題、興味あるマンガを片っ端から読み漁った。昼頃になるとヤツのお袋がチキンラーメン(二個入り)を作ってくれた。トキワ荘の漫画家も借りに来てた。でもサインをねだるヤツはいなかった。今だったら凄いことになってるかも?
ご近所様に、その他有名人が結構いた。双発ターボプロップ小型旅客機YS−11の設計などで有名な木村日大教授?、本田宗一郎さん、目白駅のバス停でしばしば見かけた当時シスターボーイと言われていた丸山明宏、現在の三輪明宏さんなどである。落語家もいた。悪役俳優もいた。今も自転車に乗って走っている姿を見かける。昭和55年頃、この悪役俳優ではないが別の悪役俳優が読売新聞の勧誘に来た。契約をしたら、今度、西部警察に出るんで是非見て下さいと言われた。後日西部警察を見ていたら、ちょい役で出ていた。今この悪役俳優さん色んなドラマや映画に出ている。有名になって良かった。普通なら絶対側に寄らない位おっかない顔してるんだ。
でも笑うと優しい顔になる。
(1)漫画
幼稚園の頃、ようやく、ひらがなが何となく読めるようになった。親父が色々な絵本を買って来てくれた。ガリバー旅行記や相撲取りの雷電為ェ門の伝記モノなどだ。絵がとても面白く、最初の頃は親父が読んで聞かせてくれた。
小学校に行くようになると漫画と言う絵本に興味を持つようになった。国内も外国もテレビヒーローものはほとんどが当時の漫画だった。
おいらも漫画は大好きだ。でもこの時代、漫画は悪者だった。「漫画ばっかり読んでると馬鹿になる」「漫画読むヤツは不良」とかコテンパンにやられた。だから隠れて読んでいた。
西洋文化が駐留軍や雑誌などからドンドン入って来た。Gパンもだ。赤木圭一郎や石原裕次郎など若手の映画俳優がはいて不良の役をやってたのが影響してか、Gパンはくと不良になるとか、Gパンはいてるヤツは不良だ!ってレッテルを貼られるんでGパンがどんなにカッコ良くてもはけなかった。そんな小学生時代である。赤木圭一郎が撮影所内で事故を起こし死んだと報道された。
又、余談だが中二の頃どうしてもGパンがはきたくて、Gパンを買いに行った。当時山手線大塚駅に大きなGパン屋があった。同級生が噂しているので知った。電車に乗り大塚駅へ、電車を降りると直ぐ分った。中に入ると客はほとんどいなかった。大半が中古Gパンだ。新品のGパンも展示してあった。触ろうとすると店員に止められた。君には買えないから触るなと言う事らしい。確かに買える訳が無い。正札を見ると六千円って書いてある。メーカーはリー(Lee)って書いてあった。憧れた。その憧れが今もGパンはリーと決めている。
中古の八百円したGパンを買った。昔のGパンは今のGパンに比べ生地が厚くゴワゴワしていた。そして洗うとかなり縮んだ。ちょっと大き目を買うのが正解だ。おいらが買った中古Gパンの縫い目に白いタグのようなものが縫い込まれていた。その白いタグに赤字でリーバイス(Levi's)とあった。当時の中古Gパンは米軍人やその家族が放出していたものだ。余談である。
でも、おいらの親父は「少年」や「冒険王」など当時の分厚い月刊漫画雑誌を買って来てくれた。不思議である。厳格(半端じゃなくおっかなかった)な親父が毎月漫画雑誌を買え与えてくれたこと、真相は分らぬままだ。
当時、どこの家庭でも親父が主導権を持っていて全てを親父が決めていたらしい。
手塚治虫などの出現により漫画が段々と認知されるようになってくるんだ。鉄腕アトムがテレビで放映されるようになった。たまたまだがトキワ荘が直ぐ近所にあった。おいらは漫画に興味があっても作家には全く興味がなかった。ただ一番下の弟は学校から帰ってくるとトキワ荘へ遊びに行ってた。帰宅すると手に色紙を持っていた。赤塚不二夫の「おそまつくん」?の画が描かれサインも入ってる。トキワ荘へ行く度に色んな漫画家の色紙をもらってくる。
おいらは全く興味がなかった。
(3)テレビ
この頃には未だ未だ普及するにはほど遠かったテレビがおいらの家に何故かあった。
真空管式白黒テレビだが大いに楽しめた。コマーシャルもやっていた。そのコマーシャルの中に本田技術研究所のスーパーカブのコマーシャルがあった。アメリカンぽい格好をした男女のモデルがスーパーカブを盛り立てていた。おいらの記憶ではスーパーカブってスポーツバイクだった。今みたいに実用バイクではなかった。価格は確か五万四千円位?だった気がする。
当時原付は免許ではなく許可証だった。十四歳で許可証が発行された。十四歳が待ち遠しい。
買えるわけでもないスーパーカブに乗るつもりでいる。空想馬鹿が加速してる。元々空想することが大好き。小さい時から空想ばかりしていた。今でも空想馬鹿してる。
この頃のホンダは凄かった。中学校にスーパーカブ、スポーツカブを寄贈していたみたいだ。(中学に入って分ったんだが我が中学校にはC110があった。跨ったら先生に怒られた。)
当時のテレビ番組はヒーローものが多かった。ヒーローモノの親分格は原作;川内康範の月光仮面だ。月光仮面は映画では陸王ってぇバイクに乗って活躍するんだ。テレビでは真っ白に塗ったホンダC70か71か72か?が活躍するんだ。映画版の主役は大村文武でテレビ版の主役は大瀬康一、その後千葉真一(現サニー千葉)がやっていた。少年ジェッターはラビットマイナー(富士重工製2サイクル90cc)に乗って活躍するんだ。まぼろし探偵、七色仮面、ハリマオ等など、ただ携帯している拳銃が皆どう言う訳かブローニング380風なんだ。挙句の果てに無制限に弾が出る。このテレビのヒーローもののお陰で風呂敷のマントを首に巻き、押入れから飛び降りるヤツが続出した。勿論おいらもだ。
男の子が夢見る全てを当時のヒーローものは叶えてくれてる。バイクに拳銃、そしてメチャクチャ強い。又、海外のテレビドラマも放映されるようになった。スーパーマンやローンレンジャー(西部劇)だ。
特にローンレンジャーは白馬に跨り、覆面をしていて銀色(白黒テレビなんで想像)の二挺拳銃(使用する弾丸は銀製)でトントと言うインディアンの相棒と一緒に悪人をやっつける様はカッコイイ以外の何ものでもない。トントはローンレンジャーのことをキモサベって呼んでいた。スーパーマンの影響なのか、空を飛んでいる夢を良く見た。一番下の弟は小さいので早めに寝ていた。急に起き上がって「月光仮面が来る」って大声をあげる事がシバシバあった。月光仮面の夢を見て寝ぼけていたのだ。
同時にプロレスも人気だった。力道山が外人レスラーを空手チョップでバッタバッタと倒していくのが痛快だった。テレビの前では一家全員で拍手だ。近所のテレビがある家から同じように拍手が聞こえるのも、この時代の風物詩だ。凄い視聴率だったと思う。
もう少しするとヒッチコック劇場が始まる。恐怖映画の到来だ。
カミナリ族が爆音を轟かせ曲乗りしてる時代だ。カッコ良かった。
カミナリ族に憧れた。
(2)メンコでは大将
勝ち目の無いベイゴマを止めた。
メンコにした。抜きメンでは大将だ。近所のガキ共を総なめにした。相手がいなくなったので遠征もした。メンコを止めた時、メンコの枚数を数えたら一万枚を越えていた。ミカン箱七箱位あったと思う。物置にしまっておいたが、ある日、学校から帰って久しぶりに物置のメンコを見に行ったら全て無くなっていた。
親父が処分したらしいが、何故処分したか真実は分らぬままだ。
ベイゴマやメンコの他にビー玉、釘刺し(当時の道路はほとんど未舗装だったので、五寸釘を使って地面に刺すんだ。次々と刺して行き、刺したところの間に線を引いて陣地を拡大していく遊びだ。刺さらないと相手にさす権利が移るんだ。)ってな遊びもよくやった。
余談だが1930年代にプラモデルなるものが、確かイギリスで発明された。1950年代にはアメリカ製レベル社のプラモデルが日本に入って来たと思う。おいらもプラモデルを初めて見た時は木製では考えられない正確な造りに驚いた。でもおいらのプラモデルに対する思いはそれ位であった。プラモデルは実物をスケールモデル化したり、近年、プラモデザイナーが創造したものなどであるから、なあーんか自己主張が希薄になる。ってな理由をつけてあまり興味がなかった。プラモデルに全く興味を示さなかった本当の理由は高価だったからだ。
ある日、模型屋のおやっさんが、おいらに面白いものがあるから見るかいってぇんで、見せてもらったのが米国レベル社の戦闘機のプラモデルだった。いくらって聞いたら千円って言うんで、いかに飛行機大好き人間のおいらでも高いって言った。元々キットってぇもんが性に合わないこともあって拒絶してしまった。
1958年マルサンからノーチラス号と言う原子力潜水艦が国産第一号プラモデルとして発売された。レベル社のコピーだったらしい。プラモ嫌いのおいらだが、後にノーチラス号は作った覚えがある。
何故作ったかは理由は忘れた。
(1)マン島TT
おいらの幼少期、テレビは発明されていたが未だ家には無かった。おいらの祖母さんと聞いていた真空管ラヂオしかなかった。浪曲や落語やニュースや歌謡番組などが中心だ。あるときニュースを聞いてると日本の小さなオートバイメーカーが無謀にもマン島TTに挑戦したと報じていた。
気になった。マン島TTの意味すら解らないのに、もの凄く気になった。そして忘れかけた頃、又もラヂオが小さなオートバイメーカーの快挙と報じた。表彰台を独占したと。戦争に負けた日本が、敵国のメーカーを倒し、日本のメーカーが世界の大舞台での快挙は日本中を歓喜させた。その日本の小さなメーカーは本田技術研究所と言う聞き慣れないメーカーだ。もの凄く気になった。
正月の年始まわりは親父と一緒に行った。合羽を作っている叔父貴の家に行った時に話題になったのは本田技術研究所だ。今のうち本田の株を買った方が良いとか、おいらには訳の解らない話ばかりだ。本田の事を知りたくて知りたくて堪らない。どんな会社なんだろう。
後にこの叔父貴、ホンダの純正合羽を下請けすることになる。
この叔父貴にはすごく世話になった。先ず合羽屋と言う事でベイゴマの床に使う敷物を供給してもらった。この頃の合羽はゴム引きのゴツイヤツだ。もの凄く重かった。
ゴム引きの生地の別な用途として鉄砲(勿論玩具)のホルスターを創った。頑丈で近所のガキ共に自慢出来た。未だ、この頃の鉄砲はトイガン、百連発と言われる火薬がロール状のものを使って引き金を引く度に火薬が弾けパンパンと音がする代物だ。モデルガンが出てくるにはもう少し時間が必要だ。
ベイゴマはこの当時ポピュラーな子供の遊び、駄菓子屋で売っていた。確か一個五円位だったと思う。何個か買うと回すヒモはおまけしてくれた。
近所に鉄工所があって、ここの息子がベイゴマだけはメチャ強かった。その時は分からなかったが鉄工所には旋盤があって旋盤で芯出ししたベイゴマに敵うはずがない。
後日談だが昭和40年後半、合羽屋の叔父貴にツナギの合羽を作ってもらった。調べた訳ではないがバイク用ツナギの合羽は市場初めてだと思う。バイク用品の老舗、東京堂のおやっさんに見せたら東京堂オリジナルとして発売したい。叔父さんに頼んでくれとのことだつたが、叔父貴はホンダの仕事が忙しく実現しなかった。
(14)初飛行
皆が順番に飛ばし、新参者のおいらは最後だ。ワイヤーは確か従兄弟のを借りたと思う。
飛ばす前に暖気をしとこうと思い始動しておいたのでエンヂンは直ぐかかった。ここで知識の無さが露呈することになる。機体をグリーンで塗ったのは良いがラッカーなので燃料に混合されているニトロベンゾールに溶かされてグリーンの雫がポタポタと滴ることとなった。
そして手がグリーンに染まった。貴重な経験の一つだ。仕方無いと思うが知識の無さが招いた悲劇だ。
最初と言う事で従兄弟が離陸させてくれた。自分で作った機体が飛んだ。従兄弟が呼んでいる。中に来いと言う事だ。ハンドルを持たせてくれた。何周かすると目が回り、倒れそうになる。従兄弟に代わる。従兄弟からおいらにと燃料が切れるまで交代で飛ばす。最後は従兄弟に代わり着陸させてもらう。こんな調子で一日が終わる。と言っても燃料が無くなれば飛ばせない。飛ばせなければつまらないから帰る。
反省会だ。先ず、耐燃料塗料のエンビ(塩化ビニル系塗料)を塗らないといかんと言う事が解った。耐燃料塗料としてエンビの他にカシューとドープってぇものがあった。後にエンビを常用することになるんだが、単に耐燃料塗料として一番安かったからだ。目が回るのは回数を重ねれば慣れると言う事らしい。
もうしばらくすると小西よりボンドが発売される。エンヂン飛行機にとっては革命的素材だ。セメダインは成分が揮発して硬化する。ちょっとした力が加わるとヒビが入り強度が低下してしまう。ボンドは酢酸ビニルが主成分、硬化しても弾力がある。ショックを吸収してくれるので、少々荒い着陸をしてもビクともしないんだ。ただ、当時のボンドは冬の寒さが大敵、水溶性なので凍ってしまいセメダインの様にカチカチになり、強度も低下してしまう。今の様にセントラルヒーティングなんてぇものは無く、起きているときは炭の火鉢や練炭コタツでの暖房、寝ているときは暖房なんて無しだ。炭の火鉢で暖房したまま寝たら一酸化中毒で死んでしまう。
しばらくすると冬用ボンドが発売され一気に解決する。勿論速乾なんてぇボンドは発売されていない。乾燥にほぼ一日かかった。小西のボンドは最初、模型用に作られたのではなく、建築用だったので模型屋(後に模型用が出た)では売っていなかった。金物屋に買いに行った。
エンヂン飛行機との出会いについてはこのくらいにして、この同時期に起こっていた事について話してみたい。
(13)制作
従兄弟に最低限必要なものを書いてもらい、貯めたお年玉二千円を握り締め模型屋へと向かった。模型屋のおやっさんとは幼稚園の時、親父に連れて行ってもらってクリスマスプレゼントとしてOゲージの電車セットを買ってもらった。それ以来の付き合いだ。
懇切丁寧に助言をもらいながら飛行機のキット(メーカーは不明だがパインってぇ機体だ)、エンヂン(フジの全面排気の099)、グロープラグ(2Vニクロム線タイプ、現在は1.5V白金タイプしか販売されていない。当時白金プラグは高価だった。)、プロペラ(木製)、レンチなど購入した。燃料は飛行機が出来て飛ばしに行く前に買えばいいよと模型屋のおやっさんが言うので従った。本当はエンヂンの次に欲しかったのが燃料なんだ。この感覚が後に油職人になる運命だったとはおいらも想像すら出来なかった。
飛行機のキットをわくわくしながら開けた。
幼稚園の頃からノコギリとゲンノウ(金槌)と釘を持って生まれて来たんじゃないかと叔父貴達に言われるくらい、木があればノコギリとゲンノウと釘で何か作ってた。
変わった子である。
飛行機のキットは何も無いところから創る訳ではないので比較的簡単に作ることが出来た。
バルサと言う超軽量で加工が容易な木との初対面だ。何でもそうだが甘く見ると後でとんでもない目に会う。このキット製作で思い知らされることになる。今でも貴重な経験としてこの後に起こることは忘れることが出来ない。
セメダインってぇ当時最もポピュラーな接着剤を使いキットの組み立てが終わった。いよいよ紙を貼る番だ。親父に障子貼りを手伝わされていたんで、これも難なくクリアー。次は塗装だ。この時代スプレー缶など便利なモノは無く、刷毛塗りである。大好きなグリーンのラッカーを塗る。十分に乾燥させて終わりだ。
模型屋さんに行き燃料を購入する。おやっさんが力づけの言葉を掛けてくれた。何て言われたか全く覚えてない。このおやっさん型破りのメチャメチャなお方と後に分かる。
従兄弟と何人かの模型屋のお客と一緒に飛ばしに行くこととなった。前日は又もや興奮して全く寝ることが出来なかった。にも拘わらず元気いっぱいだ。